合同会社設立183日目、昼

港区は雨。昨日から降りつづいている雨だ。
昨日はブログを休んだ。体調を崩して寝込んでいた。多少無理をしていたところがあるのかもしれない。自分は人間を28年もやっていてまだ人間というものがわかっていないようだ。ひとりでできることは限られている。どんなに大きな力を握ったとしても、それはせいぜい自分の寿命までだ、ということをいつも思っているつもりだが、寿命どころかちょっと具合がすぐれぬというだけで小さな力すら失われる。だからいままで生きながらえてきた人たちは、自分の力ではどうにもならないことを前にして、おそれ、おののき、そしてうやまい、しまいには自分を誰かに託すのだろう。
わたしはいままでよい人とめぐり会うことに恵まれてきたので、いまこうして五体満足に日々暮らせている。それもふつうの満足ではなく、とりわけ恵まれてきたと思っている。なんども人生の道のりから足を踏み外しそうになったが、そのたびに窮地を誰かに救ってもらった。これは誇張でも自慢でも卑下でもなく、そのままそう思う。この2年だけを振り返っても、世間様から見放されるというような危機に瀕したこともある。自分はある程度ありがちな道を歩んできて、それなりに立派と呼ばれるような位置においてもらえたので、そこから外れた自分を想像することはたやすいことではなかったが、実際起こってみたら、それはなかなか外れようとしても外れきれないのだ。落ちたと思ってあきらめたところが、まだまだ穴は深くて、はい上がろうと思えばいくらもできるということがわかった。落ちるとはいわゆる「ドロップアウト」、「バトンを落とす」と言われていることで、履歴書に空白ができたら真人間じゃなくなる、などと大学ではよく言われていた。自分もそういった忠告を受けたことがある。そのときはもちろん、いやな気持がした。胃に穴があくような思いもした。なんと世間とは狭く冷たいものかと恨んだこともあった。だがよくよく生きながらえてみれば世間様というのは、思っていたよりも広く暖かいもので、振り返ってみればわたしは誰かから必要とされていることに気づいた。そのとき自分の内側からめきめきと力が湧いてくるのを感じた。そして思い切って踏み出してみた。
茂木健一郎さんが、『フューチャリスト宣言』のなかで「創造的な空白」ということを話していた。これはまさに自分に参考になることだと思った。大学で8年間もすごして、いちど出たつもりがまた戻ったり、かと思えばもうそこには席がないと言われたり、いろいろとあったものだ。見ればそこには使い込んだ風呂敷のようにあちこち穴が開いている。穴があいたらもう荷物は入れられない、役ご免、といったこともあるかもしれない。だが穴だらけの風呂敷にもけっこう使いみちはあるものだ。穴がむしろ役に立つことだってあるんじゃなかろうか。そうやって自分が歩んできた道に、茂木さんのことばはぴったりとはまった。
これはほんものの生きたことばだ。

博士号をとったのが三月でしたが、その最後の年の一月に、じつはまだ就職が決まっていなかった。ちょっとシリアスだよね。そうしたら研究室の助手をやっていた人が僕のところにやってきて、「茂木君、履歴書に一日でも空白ができるとヤバイから、いまから研究生になる手続きをしておいたほうがいいよ」と親切に言ってくれた。わかります? 三月三一日に博士課程を修了しますよね。そうすると、四月一日から所属する組織が無い。それは、この社会のなかでは許されないことだから、たとえ研究生という名義でもいいから、とにかくその肩書きを得る手続きをしておきなさいと、その先輩は私に親切に言ってくれたわけです。
それを聞いてありがたいと思うと同時に、いまでも覚えているけれど、すごく重苦しいっていうか、社会というものに対して、いやーな気持ちを抱いたんですよ。「一度履歴書に空白ができて社会のまっとうなところから出ちゃったら、二度ともう戻れない」みたいな、そういう強迫観念にとらわれたんだよね。幸いにして、理化学研究所というところで脳の研究を始めたんだけど、そのときのトラウマがずっとあります。

これは茂木さんが横浜国立大学で学生に向けて語ったことばだと知って、涙が出そうになった。
わたしが落ちたと思っていた穴がいかにちっぽけなものか、つくづく思わされたのだ。その当時の大学で博士号をとる、という場において茂木さんが感じたであろう「いやーな気持ち」とは、わたしが数年前に感じたことに比べたら相当な重苦しいものだったろう。それをこうやって20年後くらいに学生に開けっぴろげに語れるんだ。それは茂木さんがそのときの気持ちを忘れずにいたからに違いない。風向きが変わって自分の思うように航海できるようになったら、えらそうに自分は最初から強かったなどと語るオトナもいる。だが茂木さんは自分の弱点をさらけ出して、若いひとたちをたくさん味方につけてしまっている。
それはうれしいことだ。
つけ加えて茂木さんが語った事実とは、

ところが、そのあと学会で外国に行くと、日本の常識が世界の非常識で、履歴書に一日穴があくと真人間じゃなくなっちゃう、なんてことを考えているのは、日本以外には世界のどこにもないということに気づいた。

というものだ。これは貴重な情報で、日本の大学にいてそういうことを聞いたことはいちどもなかった。どうしてかはわからない。いずれにせよ、わたしにとっては勇気づけられることだった。
そして茂木さんの語ったことばでいちばん響いたのはつぎのとおりだ。

つまりね、これからは君たちの時代で、組織の枠に縛られないで、創造性とかコミュニケーションを発揮しないといけないんだけれど、そのために必要なことは何だか知っていますか?
じつは、そのために必要なことの一つは「空白」なんですね。さっき、履歴書に穴があくと駄目だ、「空白」って日本では悪いことだという強迫観念があると言ったけれど、「創造的な空白」というのもあるんだよね。

空白は悪いことではない、創造性の源だ、というメッセージだと受け取った。
茂木さんが言っているのは、どうやら「ギャップイヤー」のことらしい。英国では社会に出るまえに空白の時間をすごすことが一部の階級にゆるされている。むしろ、それは推奨されることですらある。そこでタフな生き残りを自分の力で勝ち取ったものが、英国という巨大な乗り合い船の舵を将来握ることを期待される。
その「ギャップイヤー」を代表する人物が挙げられている。

この制度には、じつは輝かしい伝統がある。ダーウィンって知っていますか? 進化論をつくったチャールズ・ダーウィン。彼は何年間ギャップイヤーを取ったと思いますか? ダーウィンは、大学を二二歳で卒業したんですが、そのあとビーグル号の航海に出かけます。答えはなんと五年です。

わたしのギャップイヤーは何年だろうか。五年もないだろうと思う。大学を卒業したのはダーウィンと同じ22歳だけれど、そのあと大学院などに所属していた時間が長かったから、空白になったのは1年くらいか。そして28歳のとき、自分でなにかをやってみようと思い立ち、小さな会社をつくった。だが、考えてみれば自分にとっていちばん大事なことは、ほんとうに独りきりになって、とことん自分と向き合ったあの時間だったと思う。あれがなければ、始めてからすぐに壁に当たって早々にあきらめていたかもしれない。だがいまの自分は違う。少なくとも、壁に当たってあきらめるという発想じたいがない。うまくいかなければ、うまくいくまでつづけるだけだ、と思う。もう十分、材料はそろっているはずだ。あとは材料をつかってなにを組み立てるか。それをとことん考えたい。
最後にひとこと。
今日は3月31日。明日から4月、新しい年度がはじまります。4月1日、わたしの会社にひとり、社員が加わることになりました。わたしの妻です。大学の職員をやめて、4月から一緒に仕事をはじめます。わたしがひとりで「できなかったこと」を、ふたりで「できること」に変えていきたいと思っています。そうしたら、なにかが生まれるような気がします。正式な手続きはこれからですが、それが済んだら、あらためてお知らせします。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。