グーグルの話を、大事なことが起きたと思うか
グーグルの話は、けっこう大事なことが起きたなと感じています。これが自分の行き先を決定づけることもあるかもしれない。わたしは基本的に、グーグルの指し示す方向性に乗ってみようじゃないの、と思っているほうです。どうなるのか不安もあるけれど、そもそも失うものが少ないのでグーグルと一緒に航海に乗り出すことは悪くない選択だなと。グーグルはたぶん、こちらが裏切らなければ、そんなにがっかりするようなことをしないだろうとわたしは思っています。ただ、問題はグーグル自身よりも周りの人たちがどう言うかです。ウォール・ストリートの人たちも時々ひやりとさせられたり、ヨーロッパもあれこれ自分ところのルールをもういちど洗いなおす場面に遭遇したり、それこそ日本だって他人事ではない。NTTやらドコモやらもグーグルってだいじょうぶかな、と不安に思ったりしている人も多いのではないか。わたしが思うに、グーグルは「状況の力」が生み出した怪物なので、邪悪だとか邪悪でないとか、そういう水準を大きく超えた存在になっていると言えるのではないでしょうか。なんとなく、『フランケンシュタイン』を思い出します。
ただ、フランケンシュタインの生み出した怪物は、結局どうなるのだったっけ。そういうことをわたしは考えていて、もし怪物が倒されてしまったら、そのあとの世界がどうなるのか不安に思います。少なくともグーグルの世界はあらゆることが無料でできるという意味で、いまの世界でだいじな逃げ場をつくっているように思える。それはやはり、ないよりはあったほうがよさそうだ。
いまのところだいじな逃げ場を提供しているグーグルが、とくに若い人から「グーグルがなくなったら生きていけない」と思われるようになると、話はだいぶ大きな角を曲がることになりそうです。その角をうまく曲がれるのか、わたしにはまだうまく想像ができない。それを知るために、毎日あれこれと読み漁っているのかもしれません。ただ、そこには完全な答えはないので、もし完全な答えらしきものが提示されていたら、それはまゆにつばをつけて読むことにします。
たぶん、ギリシア神話とか悲劇とかにヒントがありそうな気がします。『変身物語』とか、『イリアス』とか。あるいは最近の小説でも『オイディプス王』の話と重なる物語が世界中で翻訳されて読まれたりしています。どちらかといえば常識ではありそうもないようなできごとが次々と起こる世界というのが、だんだんと何事もない日常のなかに入り込んできている。そんな気がします。物語は現実から生まれたもので、物語がひるがえって現実を変えることは人類の歴史を振り返ってみればじゅうぶんありそうです。グーグルとは歴史学的に言えば、物語の復権のあらわれ、あるいは物語の再構築かなとわたしはなんとなくそう思っています。あまりにもその登場のしかたが華麗だったので、その華麗な衣装に見とれてしまいそうですが、実際のところ長い目で見れば、歴史の大きなうねりのなかで、地味だけれど確実に起こる現象ではないかと。問題は、歴史とは多くの場合、日常とはかけ離れた場所でゆっくりと消化される、たとえば大学とか図書館で紙になっていくわけですが、それが確実に日常を浸食しつつあるということです。これまでは、たとえばどこかの国の君主が「自分が歴史をつくる」と言ったりして大きな行動をすればそれがめぐりめぐって、いつかは大学や図書館で紙になって歴史の一部になったりしていた。それが今度は、紙になっていたはずの歴史が逆にどこかの国の君主の心に遠まわしに呼びかけて、その君主の行動を変えてしまうこともある。歴史が逆襲してくる。それはグーグルのつくった世界では、起こってしまう。「あれれれ、おれこんなこと言ったっけ」と、大統領でもそう思うことがけっこうありそうな気がします。そしてそれは大統領の心さえも、遠まわしに動かすことができなくもない。とくに、「グーグルがなくなったら生きていけない」という人たちの小さな力が集まったときに、それがじゅうぶん起こりそうだ。
だから、どうすればいいのか。といえばグーグルを政治に利用しようと考えないことがだいじかなと。ほんと、いいことないと思います。政治ってのは八百屋でかぼちゃを値切って買うのも政治ですよ。自分にとって都合のいいお金の流れを作り出すこと、これは政治なので、グーグルをうまくあざむいてやろうとか考えると、いいことないと思います。そしてそれは目に見えないかたちでやってくる。
グーグルについて、もっとも的確に説明してくれるのはグーグルなので、それに譲ったほうがよさそうです。あと、日本人らしくグーグル時代をうまく生きる知恵を得たいときは、たぶん夏目漱石の『私の個人主義』がもっとも親しみやすく、多くの人の共感を得られるような知恵がこめられているとふと思いました。
いちおう、一部引用させてもらいます。青空文庫さん、ありがとうございます。
そこで前申した通り自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に引(ひ)き摺(ず)り込んでやろうという気になる。その時権力があると前云った兄弟のような変な関係が出来上るし、また金力があると、それをふりまいて、他(ひと)を自分のようなものに仕立上げようとする。すなわち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分に気に入るように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。
それで私は常からこう考えています。第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進(まいしん)しなければ一生の不幸であると。
だから個人主義、私のここに述べる個人主義というものは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党(ほうとう)を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動(もうどう)しないという事なのです。
追記
これはたぶん、自分にとってだいじな行動規範の手がかりを示してくれるものだな、と思った箇所です。夏目漱石は日本人の多くの人がいちど以上名前を聞いたことがある、あるいはその文章をある程度読んだ経験があると思われるので、日本語以外で話されている世界を外から眺めたときに、それを日本人がどのように見聞きして、どのように受け止めるかといったことを考えるうえで、名前を出すことにかなり意味があると思いました。英語で話されている世界でいろいろ起きているなあ、というのはなにかと不安なもので、自分もそういった気持から日々英語の記事を読み漁って、ない知恵を少しでも搾り出そうと奮闘しています。ただ、速報のたぐいの情報から得られる教訓、あるいは行動に結び付けられるようなヒントはあまり多くは期待できないと思います。というわけで、夏目漱石の『私の個人主義』が思い当たりました。