『私塾のすすめ』を読んで

駅前の銀行にでかけたついでに書店で買って、マクドナルドでコーヒーを飲みながら読んでみたこの本は、なんというか小学生が読んだらいいんじゃないかと思う本だった。そのくらい読みやすく、やさしい心遣いの感じられる本を読んだのは、ひさしぶりだなと思う。
この本は塾の話。
わたしが小学生のとき、塾に通うことはそれほど一般的ではなかったが、通っている人は何食わぬ顔で通っていたし、ふつうに友達とボールをけって遊んだあとで、自転車に乗って塾までひた走った。そこにわたしもいた。
日が暮れたあとに行くのが塾、というのがわたしの記憶だが、夜の世界は昼の世界とは違っていて、難解な文章がテキストにびっしりと並んでいても、それはそのまま受け入れていた。ここは昼の世界とは違うのだから。
そんな塾の子どもが、ほんとうに求めているのは、この本ではないかなと思った。
それが率直な感想だ。
ここでは子どもではなく大人が読むことを前提に話してみよう。これまで梅田望夫さんが書いて世に出していた本を読んできたような構えでこの本に向き合うと、あれれという意外な気持になるかもしれない。わたしはそうだったし、その裏切られ方は、じつに新鮮で、あとをひくものがある。甘エビの刺身のような後味がのこった。
この甘エビは、人によっては好みが分かれるかもしれない。とくに齋藤孝先生という職業的教師の発することばには、鈍い苦みのあるエビミソ(と呼んでいいのだろうか)も含まれている。職業的教師は苦手だ、という人は一定数いる。それはべつだん教師のせいではないので、それはそれとして。
甘エビのおいしいところを僭越ながら抜き出してみると、

齋藤 「けものみち」という言葉の語感のなかに、「動物的なカンで道を選び取っていく」という感じがありますよね。
梅田 そうですね。おっしゃるとおりです。
齋藤 五感をフルにはたらかせて、人間には感じられないようなささいな変化を信号としてキャッチするような、そういう「けもの」感覚。それが森のなかでの合理性なのだと思います。森の中で生きていく際には、感覚が鈍いというのは、すなわち死を意味する。僕自身も、そういう五感によるカンというのを非常に重視していて、たとえば、人と会ったときに、その人の「気」やエネルギー量みたいなものを感じることがよくあります。

というような話がはじめのあたりに出てくる。すごい、と思った。梅田さんの本で語られたことばの裏まで読んでいる。齋藤孝という人の、ただの利巧な大人とは違う、筋金入りのなにかを感じた。
つづけて、

「良い人・悪い人」とかそういうことではなくて、エネルギーの総量を身体の「皮膚感覚」でなんとなく感じるのです。エネルギーの偏在を感じたり、あるいは、この人はエネルギー量がものすごくあるんだけれど内側にこもっているなと思うとかえって好感をもったり。そういうエネルギー的なものに対する感覚というのは、野性的なものですよね。社会生活のなかでつき合ったり、一緒に仕事をしていくうえで、そういう身体感覚を僕は大事にしていますね。
梅田 僕もそうですね。「直感を信じよう」といつも言っています。自分がいいなと思ったことに自信をもったほうがいいと。自信をもつと、そこに行動が生まれる。行動すれば情報が新しく生まれる。僕はここ数年、インターネットの世界の中にすむという実験をしていて、一日七、八時間は最低、ネットの中に住んでいる。そうすると、面白いことに、この人はこういう人かな、ということは、ブログを通しての交流からもちゃんと伝わってくるんです。
ネットって誤解されているなと思うところがあって、実は、背後に生身の人間がいるんですよ。

このようなやりとりがある。
梅田さんのこれまでの文脈では出てこなかったような無防備なことばが齋藤さんの話題からつつき出される。たぶん、ブログでは読めないようなことばがここにある。このようなやりとりは、対談を通じて繰り返される。あるいはショッキングな事実も露出されているかもしれない。
それからその、森の中で生きるといった、自然な人間のありかたを当たり前のことばで語るのは、齋藤孝さんの持ち味なのかなと思った。そしてそれがどうやら彼の子どもの体験に根ざしているということも、そこはかとなく語られている。それは語るには野暮なことなので、割愛したい。
この対談のいちばんのうまみは後半にある。齋藤、梅田の順で「じつはね、ここだけの話だけれど」な告白がつぎつぎと語られる。その大半は齋藤さんが打ち明けるところに梅田さんが応じるかたちで進むのだが、なかにはそうではない、つまり梅田さんが齋藤さんを「じつはね、ここだけの話だけれど」に引っぱり込むくだりもある。

結局、アメリカの会社に十年つとめることになったのですが、研修は全部欠席して、一度も受けたことがないんです。全員並んで人の話を聞くというのが、どうにも駄目なんです。それに、大の大人が、いつ必要になるかはっきりしない知識やスキルを強制的に勉強させられるという枠組みに耐えられない。
齋藤 なるほどね。一つの趣味は千の嫌悪から成り立っているという言葉がありますけれど、駄目なことをはっきりさせていったら、一つ残る。
梅田 僕の場合は、消去法で消去していったときに自分の居場所がないんじゃないかという恐怖が強かった。だから自分の居場所は自分でつくらないといけない、無理やりにでも。それでフロンティアにいくしかなくなった。
齋藤 できないことがはっきりしているというのは、後戻りができない、つねに土俵際みたいな生き方ですね。僕も、自分自身は授業が受けられないタイプなんですよ。

と、この最後のことばは職業的教師である齋藤孝先生の口からこぼれる。
よくここまで言ったな、と思う。そしてそこが齋藤先生の求心力の出どころかもしれない。弱さをさらけ出すということの強さと呼ぶことができるだろうか。
この姿勢をあと10年つづけられたら、彼はほんものだと思う。そしてわたしは齋藤先生なら、それができるのではないかと予想する。
梅田さんは、静かに自分の話に戻ってこのように言う。

自分の時間の使い方において、志向性と合わないことをやるのは断固拒否します。そういう意味でわがままです。だから、学校に合わない子どもに共感するところが非常に強いです。学校に合わない、日本の教育システムに合わないけれどもやりたいことがあって、という人には、手を差し伸べたくなります。

この静けさを保っている梅田さんが、齋藤さんに刺激されて姿勢を変えたりしないかぎり、わたしは梅田さんを信じて「私淑する」ことをつづけたいと思う。そのような私塾には、わたしの居場所がありそうな気がする。