村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで

正直なところ村上春樹さんが走っても、走らなくても、どちらでもいい。でも村上春樹さんは走ることをやめない。そのことについては、かなり前から感じていたし、その意味では『走ることについて語るときに僕の語ること』というタイトルを見て、読む前から内容は想像がつくような気がしました。それでも、ぼくはアマゾンで見つけた瞬間に、自分で読むためにこの本を注文しました。
今日、ぼくがものすごく気になることをブログで書いている方がいました。「極東ブログ」のfinalventさんです。

一読者の私としては、村上さん無理しているなと思う。でも、村上さんの生き方は正しいと思う。大筋で正しく、そしてディテールで正しいと思う。

この言葉、そのままfinalventさんに当てはまるんじゃないか。
見た瞬間にそう思ったんです。失礼で申し訳ないけれど。はてなダイアリーの「finalventの日記」で書かれていたことも読んでいたので、瞬間的に思ってしまったんです。
一読者のぼくとしては、finalventさん無理しているなと思う。でも、finalventさんの生き方は正しいと思う。大筋で正しく、そしてディテールで正しいと思う。

私はいったん大ファンを引いたせいもあって、文章はうまいとは思ったし、50歳を過ぎたという実感にも共感したのだが、何かこれは違うなという感じがした。何が違うかは読後しばらくしてわかった。彼の妻の陰影が濃いあたりにカギがあるのだが、その部分について私はネットには書かない。たぶん、そのあたりを捨象して何か極東ブログにいずれ書くかもしれない。

このあたり。この文章を読んでから、何度も何度も考えていました。finalventさんが泳いでいるところとか、村上春樹さんがマラソンを走り終わって奥さんに「よかったね」と言われるところを。照らし合わせてみると、なんだか同じひとの話みたいに見えてしまった。
finalventさんの文章はまだ1年くらいしか読んでいない。だからぼくの考えていることは余計なお世話かもしれません。でも、finalventさんのブログの書き方は正しいと思う。大筋で正しく、そしてディテールでも正しいと思う。
そういう前提で言えば、最初の話に戻って、正直なところfinalventさんがなにを書いても、書かなくても、どちらでもいい。でもfinalventさんは書くことをやめない。ときどき、あれ、finalventさん書くのやめるかなとか思うときがある。でも毎日見に来るとなにか書いている。

ぼくの話をします。10月に合同会社を作ったんですが、ひとりなんです。これには多少の悶着がありました。少なからず自分の精神的な限界領域に踏み込んだという感じがありました。村上春樹さんが走るのをやめてしまおうかと思ったときのように。ひとりでできることの限界というか、自分という人間の肉体的限界というか。それを精神だけで支えようとしたとき、以前感じたことのないような限界領域に踏み込んだと感じたのです。でも自分は正しい、自分という人生のなかでできることはこれしかないと考えてなんだかんだで走り続けた。
失礼かな、とか思いつつもfinalventさんのことを書かせてもらったのは、そのときにfinalventさんのブログを読んで勇気づけられたからだと思います。なんか、ひとりでやっているひとがいる。でも無理しているのかな。いや、ひとりでやっていること自体は無理でもなんでもなくて、ブログに書くことというのがときには無理を要する種類のものごとだったり、ブログという形式自体が限界を迎えようとしているという事態もある。ソーシャル・ブックマークだとか、twitterだとか、いろいろある。正直なところ、finalventさんがこのままブログに書かなくてもたぶん、ぼくのなかでfinalventさんはこれからも走りつづける。
でも、それはfinalventさんにとってはどちらでもいいことか。
村上春樹さんがfinalventさんに重なって、いつのまにかぼくの一部になっている。それで、ぼくは村上春樹さんにもいつのまにかなっている。そしたら、finalventさんが村上春樹さんについて書いたことがいつのまにか、ぼくについて書いたことになっている。

何かこれは違うなという感じがした。何が違うかは読後しばらくしてわかった。彼の妻の陰影が濃いあたりにカギがあるのだが、その部分について私はネットには書かない。

そんなわけないだろう、と自分が最初に抗議するのですが、これって、ミラーニューロンってやつか。と勝手に納得している自分もいる。
そして、今回村上春樹さんの文章を読んだ感想を書くはずなのが、いつのまにfinalventさんの文章を読んだ感想になっている。これがブログってやつか? インターネットとはこういうものか?
たしかに、ぼくがどれだけ村上春樹さんを愛読しても、finalventさんが村上春樹さんを愛読しても、世の中が逆に進んで、村上春樹さんと同じ世代になって、同じ生き方をたどるということはない。そして、ぼくが村上春樹さんになれないのと同じように、村上春樹さんがぼくになることはできない。また、村上春樹さんはfinalventさんにもなれない。村上春樹さんはインターネットを早くから使っているけれど、ブログを毎日書いているわけではない。たぶん、ぼくの書いたものやfinalventさんの書いたものを村上さんが読むことはない。それでもぼくは村上春樹さんについて書く。finalventさんも、村上春樹さんについて書く。
正直なところ、ぼくやfinalventさんが村上春樹さんについて書いても、書かなくても、どちらでもいい。
それが村上春樹さん。
でも、ぼくのなかに、たしかに村上春樹さんがいる。finalventさんがいる。

かつて40歳までにきちんとした小説を書きたいと言っていた彼は60歳に近づき、そしてそうなるころにノーベル文学賞も得ることになるのだろう。

というfinalventさん。正直なところ、村上春樹さんがノーベル賞をとっても、とらなくても、どちらでもいい。
そして、ぼくが最後になにを書いてこの文章を締めくくるか、それもどちらでもいい。この文章を破り捨てても、捨てなくても、どちらでもいい。たぶん、世の中はそのくらいでは大きく違わない。
でもぼくは、ブログにはポジティブなものを増幅するという「テクノロジーが行きたい場所」があると思った。ブログは誰かが作ったのではなく、「テクノロジーが行きたい」からできた場所だと思う。だから、finalventさんのような人に共感している人がひとりいることを伝えることができるから、ここでひとつ書き込みをしようと思う。
村上春樹さんの本を読んだのに、finalventさんの本を読んだような錯覚になっている。でもそれはきっと、ポジティブなことだ。

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること