梅田望夫 平野啓一郎『ウェブ人間論』を読んで

最初に。この文章はぼくの個人的な感想です。インターネット上でどんな具合に読まれているのか、それは以下のページを見ていただいたほうが話が早いと思います。

という前置きから始めましたが、この本は正直なところ、消化しきれないままで書棚に入っています。でも誰かにあげてしまったり、捨ててしまうことはないと思います。
梅田望夫さんの『ウェブ進化論』を読んだのは2006年の後半だったと記憶しています。そしてそのあとすぐに『ウェブ人間論』が出版されて、すぐに読んだという記憶があります。夕方になると渋谷を歩いて書店で新書を選んで買っては近くの喫茶店でコーヒーをすすりながら読みふけるというあてのない繰り返しをしていたころの話です。この本は新潮新書で、ほかの新書よりも目立たなかった。平積みにされているわりに、見つけにくい。新潮社の装丁は好きです。書店では目立たないけれど、家の書棚に入れるとぴたりとはまる。そのあたり、相当工夫されているのではないか。
ウェブ人間論』と聞いて、なんだかやっかいな対談になりそうだと思いました。実際読んでみると、かなり難解だった。これはいけない、『ウェブ進化論』を読み返さないといけないと思って、それからはこの2冊は一緒に持ち歩く双子の本になりました。平野啓一郎さんの衒学に惑わされつつも、とりあえず会話なんだからそのまま読み進めればなにかが開けるはずだと辛抱して読み終えた。
やれやれ。これじゃあ、ぼくが読んでいない本を読んでから出直してくれと言われているようだった。
でもたぶん、平野さんはべつだん教養のないぼく(など)を馬鹿にしたくて言っているわけではなく、彼にとっては精一杯の正確な理解へのささやかな試みをしているのだろうということは伝わってきた。それだけでも気持ちが揺さぶられる。そのまま受け容れておけばいいんだ、そのうちになにかが開ける。
平野啓一郎さんのことは2001年くらいには気になっていた。若くして芥川賞に輝き、若い女の子のあいだで不思議な人気があるらしいということも知っていた。ぼくはぼくで、まだ若かったから「なんだ、そんなもの」とか思ってまるで相手にしなかった。当時のぼくの英雄はディケンズであり、グリーンだった。小難しい文章には興味がなかった。教養にも興味がなかった。
でも、ぼくはあるとき気づいた。どうやら周りの人たちはぼくのことを「小難しいやつ」「物知り」だとか思っているらしい。いや、信じられない。だって大学の文学部なら、本読むのが好きなやつが集まっていて、生半可な読書家のことはすぐに見分けがつくだろうに。ぼくの親友だって、ぼくよりもずっと熱心に次に読む本を探していたし、書棚だってぼくよりもずっと立派なものを持っている。なのにぼくが「小難しいやつ」で「物知り」だって? ふう。参ったな。ボロが出ないようにしなくちゃ。
というわけで、ぼくは自分で買えない分の本はこっそり図書館に行って読むようにした。とくに文芸雑誌みたいなかさばるものは図書館で読んだ。そのなかに、平野啓一郎さんの名前もときどき見られたように思う。ありがたいことに、大学の図書館は夜おそくまで開いていて、しかも空いている。図書館にこもることに馴れてきたら、そう悪いものではなかった。でも、平野さんの本は読まなかった。ぼくは飽きっぽくて、わかりやすいものが好きだった。しかも下手の横好きで、小説よりも事典のたぐいを読むほうが好きだった。
そんなぼくが、「ウェブ人間」になるのは、当然の成り行きだったように思う。(やっと本題に戻ってきた)
平野啓一郎さんの衒学が目指しているところはぼくなりに尊敬する。だが彼の言っていることがわからないときのあの悔しさとも悲しさともいえない無力感には、やはり参ってしまう。ぼくには梅田さんの矛盾を指摘する平野さんが鬼のように見えた。正しい。でも怖い。ああ、なるほど。とぼくは少しだけわかったような気がした。自分が周りから思われていたのも、そういうことだったのかな。「正しい」。でも「怖い」。でも面と向かってそんなこと言ってくれる友達なんて、それほど多くはいない。
梅田さんに惹かれたのは、自分のことをしゃべっているときの姿というよりも、相手の話をうまく引き出そうとしているときの姿かもしれない。そういう種類の大人の背中は、とても大きく、力強く見える。実際のところ、古今東西まんべんなくよく知っているのは平野さんかもしれない。だけれど、平野さんの背中は、それほど大きく力強くは見えなかった。友達だったら楽しそうだけれどな。
たぶん、ぼくは大人にわかってもらいたくて、大学で何年間もやってきたのだと思う。そこには相手の話をうまく引き出してくれそうな大人のひとたちがいるように感じた。それによって、自分がささやかであっても大事にしてきたものが伸びていくような気がした。でも、梅田さんにはそれ以上のものがあった。ぼくは2006年に出会ってしまったのだと思う。
あらゆる意味で、平野さんにはかなわないと思う。とくにそう思うのは、このような発言で梅田さんの展望に待ったをかけてしまうあたりだ。

それは、しかし、機能するんでしょうか? 僕は最近、ネットで色々な新聞を見ていて、例えば毎日新聞のホームページには「ニュースアクセスランキング」というのがあるんですが、それを見ると、だいたいくだらないニュースが三位までを独占していますが(笑)。

それに対しての梅田さんの答え。

ヤフーや新聞やテレビといったメディアは、マスに対して働きかける面白さというのを追求している。視聴率や部数というのはそれを集約したものですよね。僕が言うのは、もう少し母集団の小さい、少なくとも例えば本を読む習慣がある人たちが選んだものが自動的に浮かび上がってくるようなシステムが、技術的進化もあいまって、だんだんに出来てくるということです。感じとしては、「本屋大賞」に近いかもしれません。

それに対しての平野さんの答え。

でも、その比喩で言うと、ネット参加者が増えていけばいくほど、ベストセラー的なものとネットの本屋大賞的なものというのは、一致していくんじゃないですかね。現に本屋大賞はそうなっていますが。

はあ。そうですか。
なんていうのかな、正しいんだけれど、ぼくとしては現状認識を求めているのではなくて、行き詰まっているところを指摘するよりも、ほんの少しでも光が見えているところをこっそり教えてほしいんだけれどな。
それで、最初に梅田さんがなにを言ったのか、気になりますよね。一応、載せておきましょうか。

ある個人が一生に一回だけ書けたみたいな「万に一つの面白さ」のコンテンツも自動的に浮かび上がってくるような仕組みが見え始めてくるはずです。

ぼくはこれだけでも十分、ごはんがおいしくいただけます。だめ?
さて。
ウェブ人間論』は、『ウェブ進化論』を読んだひとがペアで持っていると、その効果は2倍以上という種類の本だと思います。ぼくとしては推定2,000,000倍といったところかな。無批判に『ウェブ進化論』のオプティミズムを信奉しても、そこからはなにも生まれない。その意味で、平野啓一郎さんは正しい。すごいひとだと思う。真似できない。
2、3年後に『ウェブ人間論』第二編が出たらおもしろそう。

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

梅田さん、平野さん、ありがとうございます。もう少し考えてみます。