合同会社設立131日目、昼

港区は晴れ。朝目覚めてからしばらく外を眺めていた。わたしの居る部屋はどちらかといえば西向きなので、朝は日が差し込むことはない。背後から日が差していて、窓の外に見える建物やら庭木やらが日差しを浴びている姿が見える。向かいにある都営住宅は南向きで、白い壁に日差しが当たってまぶしい景色になっている。遠くには恵比寿にあるサッポロビール本社ビルが見える。この構図を眺めて2年近くになるが、不思議と飽きないものだ。「眺めのいい部屋」に居る、ということの意味を少し考えてみる。ひとつには「眺めのいい部屋」とは多くの場合、明るい部屋だ。これはわたしの場合、身体の調子によい影響を与えるようだ。朝目覚めたときに明るいと、それだけで気持がいい。これはおそらく、思考にも影響する。わたしにとって、「未来が明るい」と考えるときの直感的根拠はここにあるようだ。わたしが子供のころ住んでいた部屋は、4歳まで住んだ部屋も、18歳まで住んだ部屋も同じく南向きの2階にあり、視界が大きく開けていた。冬の夜に星空を観察するのが好きだった。とくにオリオン座はいつもそこに見えていた。それから少し離れたところに東海道線の線路があり、小学生のころはそこで寝台列車がやってくるのを待ち構えてわくわくした気持になった。朝早く目覚めたときは、大阪あたりからやってくる「銀河」号が特徴的な音を立てて通過していくのを遠くから確認できた。通り過ぎる最後の音がブーンという振動とともに伝わってくる。一番後ろの車両が電源車になっているのだったと思う。そのころの記憶はいまでも鮮明に残っていて、なぜか夢で見るのは18歳まで住んだ部屋の場面が多い。その「眺めのいい部屋」に居た自分を振り返ってみると、「未来が明るい」という考えが実用的な生産を行なったかというと、行なったと思う。だが証明するのは困難だ。因果関係というのはいつでも不確かなものだからだ。ほとんどの自然科学は因果関係の証明から成り立っているように見える。だが証明を検証するのは人間で、その人間は常に同じ人物ではない。要するに、べつの人物が検証していたら、この証明は正しく検証できなかったので無効、ということになっていたかもしれない。ガリレイにしても、ニュートンにしても、ダーウィンにしても、そういった文脈から生まれた神話だろう。因果関係の証明できないことにも、生産可能性はある。そこに自然科学の発展の可能性があるのではなかろうか。そして、現代はまさにそのような時期にあると思っている。起こりえないと思っていたことが実現する、あるいはいつまでもそこにあると思っていたものが消えうせる。これは自然科学への人間からの逆襲だ。約90年前にもそのような価値が提唱された過去がある。たとえばD.H.ロレンス。それから約40年前にもそのような価値が提唱された過去がある。たとえばマハリシ。ラヴ・アンド・ピースあるいはフラワームーヴメント、のほうが記憶に残っているだろうか。そして現代。約50年おきに「自然科学への人間からの逆襲」が提唱されて強い影響を及ぼしたことを考えると、そろそろ何かが起こっても不思議はない。少なくとも、わたしにとって2001年9月11日以後の世界は明確に何かが終わった。その何かとは、いろいろな言葉で表現されていいと思う。個人的にいえば「カネのために働く」ということだと思っている。それは終わった。グーグルという思想集団からは、そのような頑固たる行動原則が感じられる。