合同会社設立212日目、夜
港区はうす曇り。ちょっと東京を離れていて、いま帰ってきたところです。
インターネットから24時間以上離れていると、そのあいだ世界にいろいろ追加されていて驚く。ほんとうに、インターネットがなかった時代とは時間の流れ方が違うなあと思う。そしてそのことに、すこしばかりの恐怖も感じる。これでもいちおう昨日の朝、ブログを書いたときまでは追いついていたのに。とくにわたしのところに入ってくる情報は、国境を越えているからよりいっそう時間の流れの速さを感じるのかもしれない。昼間も夜もあまりスピードが違わない。
このことから感じるのは、自分がなにかの理由でインターネットから離れることを避けられない事態が起きたら、あっというまに忘れられてしまうかもしれない、という恐怖だ。それは近くにいる人からみたら「考えすぎだよ」ということなのかもしれない。たしかにそうかもしれない。
考えすぎ、というのは言われてみればその通り。インターネットですごす時間の割合が大きくなるとは、それはとりもなおさず考えすぎる、ということだ。たとえば自分の街を歩いていて、ああ猫が横切ったな、とか犬の散歩の人を見てああ強そうな犬だ、とか商店街を歩いていたらコーヒーのにおいがしてきてああ飲みたいな、とか公園を歩いていたらああ八重桜がきれいだな、とか。そういった偶然との出会いにしても、かなりのんびりしたものだ。わたしは10年間くらい渋谷に毎日通う暮らしをしていたが、渋谷を歩いていてすれ違った人の印象の連続よりも、インターネットですれ違った人の印象の連続のほうが、情報量が多いような気がする。
わたしの頭のなかはいまどうなっているのだろう。ときどき自分をなにもない世界に放り込んでみる。たとえばプールでただ泳ぐとか、ただそのへんを歩いてみるとか。そういうとき、頭のなかはどうなっているのだろう。できるだけ頭に負荷をかけずに、自分の頭がそういう自然な状態におかれたときにどういうことを考えるのか、ときどき実験してみる。それはとても不思議な感じのするものだ。学問的な好奇心がわいてくる、といってもいいかもしれない。だがわたしの頭にはそこまで広い学問的な好奇心が備わっているわけではなくて、体系的なものというよりも偶発的なものだろう。自分の頭は、かなり体系的なものを拒否しようとする傾向があるなと思う。要するに、まとまりがないのだ。
たぶん、自分の頭にはインターネットの「まとまりのない」世界がしっくりと馴染むのだろうと思う。なによりも、5分後になにが起きているのか、なにを考えているのか想像もつかないところがたまらない。わたしは子供の頃から図書館にいったん入ると誰にも止められないほどに自分の関心に貪欲になる、そういう人物だったが、インターネットはそれ以上だ。そこにいったん入るとやはり、誰にも止められないほどに自分の関心に貪欲になる。こういったふるまいが、どう思われているのか。自分としては、なるべく人の迷惑になるようなことはしないように、と考えて、ときには人並み以上の気遣いをしようとする。だがこれは、自分が思ったほどには求められていないということにときどき気づく。けっこう周囲の人たちは、わたしに寛容にしてくれる。わたしの性格をよくわかってくれる人は、けっこういるのだな。不思議なことだ。
またブックマークをたくさんつける日常がはじまるのかな。これでいいのかな、と思うときもある。でもそう思ってみたところでほかのやり方が見つからない。ほかのやり方が見つかるまでは、これでいいのかな。