合同会社設立222日目、朝

港区は曇天。今朝も地震が数回あった。
地震の話がむつかしいのは天気予報のように広く告知しづらいところだ。「明日は昼前に地震が来るでしょう」などと言ったらやはり、ただごとではすまない。予報が外れるにしても、当たるにしても、予報者のところには抗議の電話が押し寄せるような気がする。思うに、外れては困るような予報、当たっても困るような予報は、「そのままの情報をリアルタイムに開示する」か、「まったく予報しない」かのどちらかに収束していくのではないか。それが長い目で見たときの結末になるのではないかなと、ふと思う。わたしは地震については自分に訊くことにしている。どう思うか、と。どう感じるか、と。たいていの場合、「わからない」と答えるのだが、それでもいちおう、自分に訊くことの効果はある。人間には感じられないことでも、かわりに動物やら植物やらが信号を発してくれるときもある。自分に訊くというより、動物に訊く、かな。もっとも、それを人間のことば(あるいは感覚)に翻訳して、行動に出力するのはたやすいことではない。だが誰が判断したのか見抜けないような加工品の情報よりは、こちらのほうが自分に近いことはたしかだ。
この人間の手をいっさい加えない、「そのままの情報をリアルタイムに開示する」「まったく予報しない」というふたつのやり方は、これからの「情報の組織化」に、あてはめることができるのではないかと思った。
グーグルがやろうとしていることは、そういったふたつの世界をつくることではないか。グーグルはメールの内容に関連した広告を出すしくみをつくった。そのときの言い分が、「悪いことをするのは人間で、コンピュータではありません」というものだった。そして「人間にはいっさい、情報は触らせません」と宣言した。これは見逃すことのできない話だ。人間よりもコンピュータのほうがえらい、ということになる。そのようなしくみがうまく働く唯一の方法は、コンピュータが自分で判断できる、言ってみればロボットになることだ。両賭けをすることは、許されない。さらに話を進めれば、ロボットが判断するのなら、リアルタイムで開示できない情報は、いっさい開示しない、ということになる。グーグルがロボットをつくっているのは、あまり意識されていないかもしれない。ロボットというと身体をもっていて人間の仕事をかわりにやってくれる機械、という具合に考えるむきもあるかもしれない。だがここでのロボットは、人工知能に近い。そして人工知能とは、人間がつくったものである。ならば、動物や植物はどこにいるのか。早い話が、人工知能と動物の勘、どちらが当てになるの? という問い。
そこまで真剣に話が進んだときには、わたしはもう生きていないのかもしれない。だがこれは、わたしがこの時点で思ったこととして、記録しておこうかと思う。そしてこれは、グーグルのロボットの一部に組みこまれる。