ジャーナルと日記

英語と日本語のブログを毎日読みつづけるということをしていて、思ったこと。
わたしが英語で書きたいと思うものと、日本語で書きたいと思うものは、どうやら別々らしい。
英語がうまいとか下手だとかそういう話ではなくて、そんなことを言ったらわたしは日本語が下手なので収拾がつかないし、そういうことを話したいのではない。ちなみに日本語が下手ではないとはっきり言えそうなのは丸谷才一さんだけれど、それはまた別の機会に。
わたしが英語で書きたいのは、やはりジャーナルだと思う。
わたしが日本語で書きたいのは、日記だと思う。
説明すると、ジャーナルというのはすぐわかるもので、日記というのはしばらくするとわかる(かもしれない)ものだ。
さらに言うと、ジャーナルは人に見せるためのもので、日記というのは自分に見せるためのものだ。
ここに書いているものがどちらかは上を参照。
説明だけでは物足りないというひとには、注釈をつけようと思う。
英語とジャーナルというのはやはり、十円玉には裏があるのと同じだと思う。要するに、英語ということばはその生まれからして、散文で書かれたものはすべてジャーナルなはずで、そうでないものは韻文で書かれるのが本筋かなと思う。
(そうでなければワーズワースはフランス語で語ろうとしなかったのではないか。そしてわたしは若いワーズワースのように政治をやろうとは一切思っていない)
で、フランス語はやはり「われ思う、ゆえにわれあり」と言って有名になったデカルトのようなひとがいちばんうまくつかったのではないか。
散文で書かれた英語は、やはり読みやすい。ジャーナルだから。英語でものを考える人は、あまりにことばが抜け穴だらけなので、とにかくできるだけわかりやすく書くのが了解事項になっているように思う。最初のひとことで読み手をひきつけなければ終わりだよ、という具合の約束ごとがある。そういった訓練をどうやっているのかはじつは正確には知らない。
推測入りの経験談をすると、アメリカのやりかたなのかわからないけれど、わたしが大学に入って最初にやらされたのは、ジャーナルを書くことだった。そしてそれを毎回誰かに読ませて、コメントさせる。自分もコメントする。
ジャーナルというのは人に読ませてコメントがついてはじめて生きるもの、という考えを植え付けられた。そしてその後の大学の少人数の授業でもだいたいその延長をやっていた。ちなみに言語は英語。
そこで学んだのは、英語というのは正確ではない言語だから、ほんとうに正確に理解したければ、フランス語でものを書いたひとのことばじゃないと腑に落ちないはずだということだ。それを誰かから教わった。
そういう物言いが気に入らないひとは、どんどん詩や演劇に逃げて行った。わたしはその場に残って、気がつけばそのぬかるみに足をつっこんで、フランス語を英語にむりに翻訳したものなどを読まされていた。あれはじつに苦しく、勉強になった。
まとめると、英語はフランス語に勝てない部分を、アメリカに持ち込んでそれがウォール街ジャーナルになった。「数字ならおれたちのほうがうえだ、まかせておけ」とでも言っていたのかもしれない。だからジャーナルは、数値化できそうなもの、括弧でくくれるものを、展開した文章と言えるかもしれない。事実ベースがなにより好まれる。
英語とフランス語のこの関係は、もちろん逆流もあった。
外交ではフランス語ができないのはのけものにされる。いや、会議に出るぶんにはなんら問題はないけれど、そのあとの宴会ではフランス語が理解できないと居心地が悪いということをどこかで読んだ覚えがある。これは正確ではないかもしれない。
話が横道にそれた。
日本語の話をしよう。わたしたちがつかっている日本語は源氏物語のひとたちが使っていたものとは違う。明治から大正に船舶で輸入してきたひとたちが使っていたものとは違う。カタカナにしても、ぜんぜん違う。それを了解したうえで、現代の日本語ということを考えてみる。
わたしがいちばん好きなことばは日本語ではない。というとなんだこのと野次られるかもしれないが、机の右側にずらずらと並んだ本を見るとそう思う。そこにあるものは、英語を翻訳した日本語の本だ。これがわたしがいちばん好きなことばだ。翻訳の苦しみをくぐり抜けたあとの静けさを保っている日本語が好きだ。そしてその日本語を使っていて、いちばんしっくりくるのは村上春樹さんだ。ここまで話せば、ああそういうことかと納得してくれるひともあるかもしれない。
翻訳以外の日本語はどうかと言われると、好きだよ、だけれど日本語で書くと甘えが出てしまうので自分があまり成長したと思えないというのが正直な答えだ。これは反対もあるかと思う。
それで英語で書いてみたり訓練するが、想定の読者が日本人なので、あまり変わったという感じがしなかった。これは誤算かもしれない。しかし話はまだ終わっていない。もういちどやりなおしてみたい。英語圏の人に読んでもらえるものを書けないというきめつけはしたくない。
このごちゃごちゃをくぐり抜けたうえで、わたしはいまの日本語を書いている。
これは日記以上とは思えない。いますぐわかってもらおうというつもりはない。ただ30年後に見直して恥ずかしいから隠しておこうというようなものにはしない、というきめごとだけはしておこう。