けものみちについて

自宅兼事務所で朝から晩まできまったことをしていると、だんだん感覚が麻痺してくるようなので、少し息抜きの意味でつらつらと思うことを書き留めている。
どうも人生というのは自分ひとりだと考えると重苦しいものらしい。これはある種の普遍性をもっていると言えそうな気がする。
というのは、将棋の駒がひとりではなにもできないけれど、組み合わさって非常に大きな力を生み出すのを目の当たりにしたからだ。そしてこれは効率のものというよりは、信頼のものだとなんとなしに感じた。
僭越ながらわたしの偏った見方を披露すると、そのことはおそらく日本人の娑婆から外れた世界というか、いわゆる風流のひとたちの生き方に根っこでつながっているような気がする。武士は食わねど、賽銭盗みはしない、というか。武士は負けたら泣き言はいわない。腹を切るか、風流に行くか。日本の文化は、掛け値なしに風流のひとたちの人生から生まれたもので、そこはどの文化にもない強靭さをもっている。

日本の風流には、値段がない。端的にいえば万葉集を見よなのだが、それでなくとも正月に百人一首かるたをやって、その歌詠みの人間の種類が広いことに気づいた人は多いだろうと思う。俳句も短歌も、あるいは川柳も日本人なら誰でも読んでかまわないことを多くの人は義務教育のなかで自然と教わる。さらに言えば虫を殺してはいけない、猫をいじめると罰が当たる、などといったことも、ほとんどの子どもは実体験で、無料で教わる。歌にはなっているかもしれないが、映画になるほどではない。
ひとつ例をあげると、ギリシアやイタリアでは昼寝をするのが習い性になっているという。わたしが知っているなかではアキレウスが昼寝の原初にいちばん近いが、ギリシア人、ローマ人が自然と身に付けてきたものがいまでも民衆の日常生活にしっかり残っている。これは値段がないということで、日本の風流に近い。だが日本の風流は、もっと強靭だと言うのがわたしの意見である。
なんということはなくて、ここ東京では犬も歩けば寺に当たる。墓もすぐそこにある。東京にいるがそんなのは見たことがないというひともあるかもしれない。だがすぐそこ、たとえば東京タワーの足もとにあるのは徳川家ゆかりの増上寺の墓地だし、青山通りBMWショールームからちょっと横道に入れば巨大な墓地がある。わたしの住んでいる麻布も寺がそこらじゅうにある。あんまり言うと気味が悪いのでやめるが、そこには風流の世界がいまでも息をしているし、そこにはふしぎな時間の流れと、カネの流れがある。観光客の多い京都や鎌倉の寺はだいたいのカネの流れが見えるが、東京の地味な寺はけっこうな数がある。その多くは領収書のないカネのやりとりでしっかり残っているし、そこが日本人の底力をなによりも証明していると思う。そこには税金よりもたしかな共同体への信頼が生きた、献金が行なわれている。税金についてぶつぶつ文句を言うことはあっても、誰も「寺なんてなくたって、かまやしねえ」とは言わない。そこが日本の共同体が生きていると言える最後の砦だとわたしは思っている。
ギリシアやイタリアよりも日本が強靭だというのは、観光の首都になっていない、ということだと思う。京都は観光の首都にかなり近いが、東京はローマやアテネとは違う、武士と町民の文化が生きた潔さがある。どういうことかといえば、賽銭盗みをやるかどうかという話だ。日本人の作家が書いたものにかぎらず、ギリシア人とローマ人には油断するとだまされるから相当気をつけないといけないと聞く。東京も観光客はこれでもけっこう集まってくるから、賽銭盗みをやろうと思えばできなくもない。だがあまりそういう話は聞かない。そのあたり、東京の武士や町民は信頼を大事にしていて、信義をもって日々暮らしている人は風流に近い。海岸のほうにはずいぶん建物が増えて、商人のカネがぐるぐる回りに回っているのも事実だが、それは東京の姿とはだいぶ違う。有栖川公園あたりには、武士と町民の雰囲気のよさがある。
話は戻って、将棋の世界には武士と町民の潔さ、信頼をなにより大事にする空気が残っていて、それはとくべつなものだろうと思う。
そして、それは風流の世界と思われているので、「将棋の未来を切り開く」ということが、「ビジネスとして将棋の未来を切り開く」という話にはなかなか結びつかなかったのだろうと思う。
じっさい、梅田望夫さんも今回の観戦記を仕事とは分けて考えているようで、

今回は、本当に、そのためだけに。日本を離れて早14年になるが、仕事抜きで日本にやってきたのは、これが初めてのことである。

と書いている。
この考えには概ね同意する。だが「仕事抜き」という点でわたしにはなにか、それだけでは割り切れないような、なにか噛み合わせの悪いような心地もするのだ。
自分でもどうしてそう思うのか、よくわからない。
つまり、わたしからすれば将棋を休日の過ごし方のひとつに入れてしまうというのは、なにかうまく呑みこめないのだ。
これは「人はなぜ働くのか」という問いかけにもつながってきて、かなりややこしいのだが、たとえば今回の対局では、佐藤棋聖と羽生王座は仕事抜きとは思っていないだろう。これが自分の仕事だと思ってやっている。ふりかえって梅田さんは仕事抜きと思って来ている。だがその日の対局にかける情熱の強さはほとんど同じではないか。それで飯が食えるかという観点だけできめれば佐藤さん、羽生さんは仕事。梅田さんは仕事抜き。だがこの観点だけで分けると、棋士と呼べるのは将棋を愛する人たちのごく一部にかぎられてしまう。それはおそらく、佐藤さんも羽生さんも梅田さんも望んでいない。「仕事抜き」と前置きしたのは、梅田さんの人の視線を惹きつける文体のうまさなのかもしれない。最初でそのように断っているにもかかわらずこの観戦記は果たして、少しも手抜きの見られない本気の仕事になっている。
わたしが考える理想の話の結末は、「仕事抜きと言っておきながら、これほどまでに本気を出して人目を惹くことができたのはなによりも将棋が好きだからだ、わたしは好きということの凄まじさが、なにかを壊してくれることを信じてこれをやった。将棋の世界と外側の世界の壁を壊すことができたのなら、わたしのねらいは成功したと言える」と(仮に)梅田さんが言ってくれたらわたしの理想かもしれない。
そしてわたしは、カネの回りが悪いところは仕事と切り離すというやりかたも、梅田さんが壊してくれたのではないかと思う。わたしの世代は梅田さんとは20年くらい離れている。梅田さんが時代の切り替わりを真っ先に切って拓いてくれたのならば、わたしたちはそれに喝采を送るだけではなく、拓かれた「けものみち」を自分の足で歩んでいくという、ほかの世代の人にはできない経験を与えられたのかもしれない。もっとも、カネが回らないところで「好きということの凄まじさ」だけを頼りに、勝負をつづけられるのはよほど運のいい人だけだ。しかしそれは「簡単ではないけれど実現可能な夢」と言っていいだろうと思う。これからなにかが変わって行くのは間違いない。多かれ少なかれ、生まれ変わりの苦しみが全員の経験することならば、恐怖から逃れるかどうかがその後の人生を分けるのかもしれない。自分はそのなかでできるだけ「見通しのいい場所」に立って、日々生き残ることに全力を傾けようと思っている。日本には風流という世界もある。武士はどこかで負ける。勝ちつづける武士はほとんどいない。負けたところで腹を切るのではなく、風流で自分の居場所を見つけることは不可能ではないし、そこが日本という共同体の強靭さではないか。風流というのはなにも出家せよということではなく、いろいろある。そしてこれからは風流の世界は増えていくと思う。カネは回らないかもしれないけれど、そこで好きの凄まじさをぶつけあって真剣勝負をする。そのなかで勝ち抜いた者が、好きを貫くだけでなく、尊敬を集め、結果としてカネも入ってくる。そういった世界がいろいろな場所で起こるとして、将棋の世界は間違いなく、その大事なヒントを分け与えてくれる世界だと思った。