合同会社設立256日目、朝

港区は雨。早朝にとつぜんどしゃ降りになって、その後しとしとと弱い雨がつづいている。
木曜日。
昨日の棋聖戦を素人なりに見させてもらって思ったのは、これが多くのひとの心の栄養になっているのだな、ということだった。そしてわたしも心の栄養を日頃から欠かさずに必要としていて、それがいままで将棋ではなかったけれど、ほんの些細なきっかけで将棋が心の栄養になっていたかもしれないなと思った。
いまのところ、わたしの心の栄養は毎日の仕事とはべつの方面の読書によって細々と注ぎ込まれている。わたしはとにかく時間のかかる読者で、ふつうのひとなら2時間で読み切るところを2週間、あるいは2年かけて読むくらい時間がかかる。そういった、するめを延々と噛みつづけるような読書なので、本を買ったらしばらくは栄養の補給は要らない。
将棋の感想戦というのは、するめを延々噛みつづけるようなものかな、とふと思った。対局は苦しくとも、その後の感想戦が楽しくてわくわくする、なんどでも楽しめる、という棋士のひとも多いのかな。昨日の棋聖戦はおそらく将棋の頂点に位置する対局のひとつだから、感想戦が至福の時なのだろうとしみじみ思う。これを強化学習と言っていいのか、とにかく佐藤棋聖と羽生王座の脳には快感物質がたくさん出ているのだろうな、と思う。
そして「そこには勝者も敗者もおらず、科学者が真理を探究する姿だけがあったのだ」という梅田さんのしめくくりの言葉を読んで、なるほどあの世界かと思った。あの世界かというのは、ひょっとすると見当違いかもしれないが、わたしが勝手に思い浮かべているのはギリシアの哲学者、あるいは詩人の姿だ。そこでの主人公はギリシア神話の神々で、人間を越えた存在であるのだけれど、人間としか思えないほど人間らしい存在で、その人間の数ある属性のなかから、一部だけを切り取ってきた、ある種偏屈とも言える存在だ。その主人公は普遍的な存在なのだが、神々は自ら語るのではなく、哲学者や詩人に語らせる。そしてすぐれた哲学者や詩人とは、いかにして神々のことばを代弁するかにかかっている。そしてその営みはギリシア時代が終われば途絶えるのではなく、ローマで数人の詩人が受け継ぎ、イギリスのロマンティシズムの詩人が受け継ぎ、その現代形は大人向けの童話やその映画化で生き残っている。
話がやや流れたかもしれないが、真理を探究するというのはたぶん、ひとりではできないことなので、自分だけで責任を負う必要がない、自分がひとつの駒になる、自分がほかの探求者とは違った道を進むことが許されて、それでいて探求の道のりを語り合うこともできるという世界で、それは将棋の神もいれば、ほかの神もいてかまわない世界だ。そこが絶え間ない心の栄養の補給になっているのではないかと思う。
羽生さんが自分を銀にたとえ、佐藤さんが自分を桂にたとえ、自分がひとつの駒になったような気分にしっくりと馴染んで居心地よさそうに語るのを見ると、やはりこれは至福なのだろうと思う。自分の居場所がたしかにここにある、ほかのなにものでもない自分、だけれどそこに居なくてはならない自分を発見しつづけるよろこびとは、どれほどのものだろうと思う。
そしてわたしがふと思うのは、インターネット越しにつながる個々の思考、真剣な論考の数々がそれぞれ違っているにもかかわらず、全体としてみればなにか整った世界、調和のとれた世界が有機的に存在しつづけている姿に通じるものがある、ということだ。有機的というのは、たえず変化するということだ。一部が壊れても、全体でその調和をとることのできる仕組みということだ。そして存在しつづけるというのは、グーグルのように巨大な結び目が次々に生まれていることだ。そしてその世界は誰かのつくったものだが、どこか神のいる世界に見える。それでいて神は唯一ではなく、多くの神々に支配される、そしてその子孫が次々に人間の世界に出てゆく。そうやって、古い神々はだんだんと見えないほうへ落ち着いていく一方で、若い神々は元気に駆けまわる。
まとまらないが、ふと思ったことをそのままに記してみた。