棋聖戦の観戦記を読んでふと思ったこと

梅田望夫さんの観戦記を読ませてもらった。わたしが興味をひきつけられたのは、対局そのものの進行というよりも、その外にあるものだった。佐藤康光さんのメールでの返答にはじまり、羽生善治さんの会食の席での筋の通ったひとことや、午後から到着した若手棋士の解説のこと。将棋の明日を左右する事件とは、対局そのものより、9かける九の将棋盤の外で起きているのだとよくわかった。それを教えてくれた梅田望夫さんのコラムには、はじめのひとことからガツンと頭をなぐられて、そのまま土俵のなかに引きずりこまれたような気がした。
へえ、真剣な対局に向かうのにも、新幹線の乗り場で待ち合わせて、やあやあなどと笑顔であいさつをかわすんだなあ、と興味シンシンで読ませてもらった。
そのあとのあれこれが、ああ温泉旅館で人が所狭しと肩を寄せあって、それでも場がつくられたら和服で礼儀正しく対局をはじめるのか、なるほどと思った。わたしは将棋についてはまるっきりの素人である。そんなことわかっていたよ、という思いで読まれた方もなかにはいるだろう。しかし梅田さんがねらって書いていたのは、まさにわたしの年代(1970年代後半生まれ)の多少なりとも将棋を好んでいる、それでもじっくり対局を見る暇のない人たちだろう。

将棋の未来を切り開いていくためには、「指さない将棋ファン」「将棋は弱くても、観て楽しめる将棋ファン」を増やさなくてはいけない。顕在化しなければならない。ベテランたちよりもうんと長期的な視点でモノを考えていかなければならない若手棋士たちのそんな問題意識は、渡辺さんや、彼の周囲の棋士たちのなかには横溢しているのである。私も微力ながら、そのお手伝いをしようと思っている。

このような感覚は、野球やサッカーを見るのが好きだ、大事な試合のときは飯も忘れて試合に見入るという若者の心的状況に重なるのではないか。その問題意識は棋士だけのものではない。将棋以外のスポーツでも、べつだんプロの選手でなくとも、ぼくらは他人ごとだとは思っていなくて、たとえば昨年のヤクルト・スワローズのひどい成績を見て、「古田もかわいそうだな、こんなときに監督やらされて」と神宮の隅っこから同情するのとどこか似ている気がする。
そしてそのような同情を誘うということは、要するに内部の事情まで丸見えだということではないかと思う。
梅田さんが今回切り込んだのは、「丸見えにする」ことだったのではないかな、と思う。卑近な例で言うとプロ野球などのスポーツ・ファンにはその内部事情が丸見えになるというのがたまらないアディクトを誘うものだ。プロ野球の解説がおもしろいのは、なによりもベンチの裏側まで丸見えにしてくれるからだ。ぼくらの世代はそんなに内省的ではない。リーグ戦のスポーツだってけっこう見るし、高校野球だって、マラソンだって、オリンピックだって見て育ってきた。潜在的にはじゅうぶん、真剣勝負をする勇士に喝采を送る準備はできている。たとえばサンスポで昨日のナイターの結果を見ながらぼやいたり、土日には競馬見物に出かけたり、インターネットでも2ちゃんねるを見たあとに、ふと思いついて産経のニュースを見ることだってあるし、税金や保険料の話題がでれば社説だって興味をもって読んでいる。そんなひとが出会い頭に梅田さんの観戦記を読んだら、「ああそうだ、将棋会館にでもいくか」と思うんじゃないかな。国立競技場とか、神宮球場にも近いわけだし。
わたしの中学時代の娯楽はゲーム、サッカー、つぎに将棋だった。将棋はそのくらい身近なものだったので、ほんの一押しで、ファンになってくれるひとはたくさんいると思う。むしろそうでないほうが不思議だ。野球やサッカーはテレビにかじりついて見てきたのに、将棋は見ないという理由はとくにない。
その意味で、佐藤康光棋聖が梅田さんにこの話を持ちかけたのはじつに時機を得ている。