合同会社設立284日目、朝

港区は曇天。朝から蒸し暑い。
木曜日。
出先から帰ってきてしばらく、よそ者のような気分がしていたけれど、ようやく自分の居場所に戻ってきたのだなと感じています。これでも東京都心には縁が深い人間なのに、しばらくぶりに帰ってくるとよそ者になってしまうのは、街の風景がつぎつぎと変わっているからかもしれない。それで慣れるのに時間がかかる。たとえば古びた木造の民家だか商店だかわからないような建物が、いつのまに高層マンションらしきものに変わっていたり、山だったところが平らになっていたり、一瞬わけがわからなくなる。それでもしばらく考えてみればその理由がわかって、なるほどこうやって街を作りかえているのだなとようやく合点がいく。考えてみれば納得できることでも、一瞬わけがわからなくなるというのはたしかにある。その一瞬だけで自分がよそ者にされたような気分になってしまう。それは不思議なものです。
今回出かけた愛知県、岐阜県はまったくはじめてなので、どんな風景があっても「そういうものか」とはじめから納得してしまう。たぶん急激に変わっているのだろうと思われる風景もいくつかあったけれど、自分はその前の風景を知らないものだから、どうにも想像することができない。こういう「よそ者」がそれを真っ先に承認し、新しい街をどんどん作り替えていくのだろう、東京でも愛知でも岐阜でもそうやって街は変わっていくのだろうと思いました。それはよいことでもあり、わるいことでもある。置かれた立場によって感じ方が違うだけのものなのだ、ということがよくわかりました。東京に負けないくらい名古屋も巨大な建物がひしめいている。岐阜の田舎町には雨のあとのたけのこのように、真新しい工場が出現している。それでも毎日同じように太陽は昇ってきて、地面を照らして、やがて地面の向こう側に沈んでいく。朝になれば鳥がチュンチュンとなき、夕方にはからすがカフカフカフとなく。人間以外の動物は変化があっても反対運動をしたりしない。生き残る場所をさがしつづける。わたしは都市の風景がつぎつぎと変わっていくことにうまく馴染めないけれど、そういう自分も昔とは変わってしまった世界に住んでいるのだから文句は言っちゃいけないな。新しく生まれてくるひとたちが、居場所がないようではこの世界は老人だらけになってしまう。若い人たちが住みやすい世界でこそ、都市の活気も湧いてくる。新しい世界は前よりよくなっている、いや前よりよくしていくんだ、自分たちの手で。そうやって考えることにしようと、わたしは思いました。愛知や岐阜には東京にはない未熟さが残っていて、これから先も成長していくのだろうな、まだまだよくなっていくのだろうな。周辺には広い空間が残っていて、自然とけんかしない程度に産業を育てていくことはできるだろうな。この地域には東京では絶対にできないなにかが必ず生まれてくる。そのヒントは山と河と平野の組み合わせだろう。自然と仲良くなって、そうすれば途方もない力が生まれる場所だ。ちょうど、尾張家がそうであったように。