合同会社設立286日目、朝

港区は晴れ。朝から気温があがっている。
土曜日。
豊田喜一郎の伝記をなんども読んでいて、その性質と境遇の自分に似た部分をすこしでも見つけようと試みている。
喜一郎は豊田佐吉の長男で、父が自動織機を発明したのを見て育った。父は並外れた努力の人だったので、なかなかその指示に逆らうことはできず、喜一郎はおとなしく、どちらかといえばものを言わない性質だった。それでも誰も手をつけようとしなかった自動車の国産に立ち向かう。
なぜ、喜一郎にそれができたのか。

自動車の製造は社内の人材だけではとても足りない。喜一郎は、社外に即戦力となる人材を求めた。その中で業界をあっといわせたのが、菅隆俊の引抜きである。(中略)
菅は、もしその会社が設立されたら、開発製造の中心に座る人材である。その人物を、喜一郎が引き抜いてしまった。各社とも自動車参入の決断ができず、もたもたしていたからである。中心人物を引き抜かれて、中京自動車工業株式会社構想はガタガタになってしまった。結局、鮎川や喜一郎のように、信念を持って決断し、ぐいぐい引っ張っていくリーダーがいなければ合併もできないし、会社一つ設立できないのである。(野口均『トヨタを創った男 豊田喜一郎』WAC、2002年)

伊藤は、喜一郎が披露した自動車参入への決意と大衆車構想を聞いて、自分の求めていた理想の事業家が現れて驚くと同時に、喜一郎の熱弁にうたれた。そしてそれを報告書にまとめて遺した。
『創造限りなく』によると、伊藤は後年、この時の喜一郎の固い信念と、「もしも自分が途中で失敗しても、誰かが跡を継いで自動車の量産に成功してくれるだろう」という強い国家意識にうたれ、豊田を育て大衆車の量産を実現しようと心に誓ったと回顧している。
伊藤との会見は大成功であった。喜一郎は陸軍省に強力な同志を作ることに成功した。