「日本語が亡びるとき」を読んで(3)

つまり、英語の優位はたしかにあって、日本語で書かれたものが長い目で見て強く残っていくとは思えず、かといって英語の文化が日本語をもうすこし柔軟なものにしていくのかといえばそれもあやうい。
それでも、力強い日本語で書かれたものはしっかりと、外に出て行き衆目にさらされて正しく評価されるだけの可能性がじゅうぶんある。
たとえば、梅田望夫さんの『ウェブ進化論』は韓国語に翻訳され、それを読んだ韓国人が梅田さんのブログに日本語でコメントしたという。これは梅田さんの日本語が力強いものだったからだろう。
日本語を再編成していくのも無理ではないといったのは、そういう意味だ。いったん日本語の形式が壊れてしまっても、外国語に翻訳され、読まれることによって日本語が強くなることは可能だ。つながる磁力は言葉が生き残るチカラになる。
これを、わたしは「日本語が亡びるとき」を遠ざけるひとつの手だと考える。
だが話が言うほど簡単ではないことも見過ごしてはいけないと思う。
英語の優位が決定的になった世界を、アメリカで実体験してきた水村美苗さんの話には、ただのうわごとではない重みがあって、ここはひとつ真剣に聞いておこうという気にさせられる。
自分としては真剣に聞いたつもりだが、この話は人づてに伝えるのがむずかしいかもしれない。
自分の考えをひっくりかえすような書物に出会った人の多くがそうであるように、わたしには「日本語が亡びるとき」をうまく要約することができない。ひとつひとつの言葉が同じくらいの重みをもってのしかかってくる。書棚の整理をしていて、どの本を残してどの本を捨てようか悩んでいるかのようだ。どれも捨てがたい。できることといえば、周回遅れの走者として、ぶつぶつと切れ端をぎこちなく発するのが精一杯だ。
さて。
英語で書かれたものが雪だるま式に流通し、それ以外を隅に押しやっている現実はおそらく、1935年に英国で生まれた「ペンギン・ブックス」(参照)などの安くて軽いペーパーバックの登場あたりからつづいているのかもしれない。加えてノーベル文学賞が創設されたのは1901年。ノーベル文学賞の受賞作は英語に翻訳されていたから受賞し、それがゆえにさらに流通したというのは、水村さんも指摘している。
20世紀終わりになって、アマゾンが世界中に英語の書籍を安く発送することによって、この動きはさらに加速したのかもしれない。
わたしが2002年に大学院に入ったとき、授業で読むテキストはアマゾンから各自注文して入手することが推奨された。図書館で借りるよりも見つけやすく、書店で買うよりも安い。しかも、1冊買うと次から「この本を買った人は、こんな本も買っています」とおすすめまでしてくれる。そうやって買い集めた本は、だんだんと書棚のなかで存在を強めていった。多くの人が読んでいる本ほど、さらに多くの人の手に渡る。わたしは英語の本がこれほどかんたんに、安く手に入る世界を生きているのだと知って、なんでもできるじゃないかという気持ちと、なにもできないという気持ちがした。研究に使える本はどんどん探して、先輩や先生を追い抜くことだってできるような気がした一方で、それを読んで自分の論文を日本語で発表したところで、あふれかえるペーパーバックのなかに埋もれてしまい、読んでもらえないような気がした。
インターネット越しにアメリカ西海岸で起きているテクノロジの進化を知ろうとして、英語であれこれ読んでみると、そこには日本語には翻訳されていない強い主張をもった記事がたくさんあることがわかった。日本の新聞ではここまで主張する記事を書く人は歓迎されないだろうな、と思い頭の後ろを左手で力なく掻いてみたがもう片方の手では強い主張の記事をもっと読んでみたいとページをめくっていた。こういった記事を読もうという人が日本にもいるのなら誰かが翻訳して、英語では読まないけれど日本語では読むという人になにかが伝わる可能性はあるのではないか。海外ニュースを紹介、というよそごとではなくて、自分も同じ世界に生きているという手ごたえの感じられるようななにかが。
それと同時に、英語で書かれた言葉を日本語に翻訳できるのなら、その逆もできるのではないか、ニューズウィークの特派員が見た日本ではなくて、日本人がいつも見ている日本がもっと日常的な言語で翻訳されていく、そんな場所ができないだろうか。そう考えたわたしは、気がつけばウィキペディアに英語で書き込まれた日本の文化や人物の項目を雨上がりの朝の虫のようにしがみついて読んでいた。「のだめカンタービレ」(参照)や「村上春樹」(参照)といった項目が想像以上に充実している。眉間に寄ったしわが少しだけ緩んでいるのに気づいた。
梅田さんが「知的に幼い日本語圏ネット空間」と表現したのとは、だいぶ違った世界がそこにはあって、日本のことが、日本語以外の言語で増殖している。「<書き言葉>による人類の叡智の蓄積」とは、こういうことだろうか。わたしは、日本のことが日本語以外の書き言葉で蓄積していっても、かまわないんじゃないか、そんな気がしている。ほんとうに蓄積が進むのなら、そこで日本を理解した人が、向こうから日本語で話しかけてきて、第二言語としての日本語でなにか書いてくれれば、日本語に新しい風を吹き込むことだって、不可能ではない。まずはつながること、そこから再編成、そういう道もあるような気がする。
(つづく)