わたしも一晩寝て考えたけど

昨日の午後11時すぎ、というか日付が変わる直前に寝ぼけ眼でパラパラとお気に入りブログを読んでいたら、偶然「極東ブログ」の記事「大恐慌に軍靴の音を聞く……考え過ぎだけどね」が投稿されているのを見つけた。
そうそう、この記事を待っていたんだった。読まなくちゃ。と思ってfinalventさんの思考のたどった道を追いかけてみた。
けっこうあとに残るものがあったのか、そのあと寝付かれなくなった。しょうがないからパンでも食べて、それでも落ち着かなくて缶ビールをゴソゴソと取り出してちびちびと飲んでいた。
といっているうちになんだかんだで眠りについたのだが、その後がまた長かった。ずっと夢を見ていたような気がする。ひとつは地震の夢、ひとつは誘拐の夢と、なんだか物騒なことになって、目覚めたあともしばらく、まともに睡眠をとった気がしなかった。
いや、finalventさんの書いたことが衝撃だったのではない。むしろ自分のなかに衝撃があったのだと思う。というのは、自分が言葉に出したくても出せなかった思いのようなものが、氏のことばのなかに変身して現れたような気がした。そういうことは、これまでもなんどかあったのだけれど。印象に残った部分はこれ。

よくマスコミでは日の丸だの靖国神社だのという私がさっぱり関心のない話題に軍靴の音が聞こえると表現するが、私は世界大恐慌の可能性にその音を聞く。第二次世界大戦大恐慌が生んだのではないかと私は思っているからだ。ただ、その見方は歴史学的には正しくはないのかもしれない。まあ、考え過ぎだけどね。

考え過ぎだよ、とわたしもよく言われる。だがわたしなりにここ数週間気をつけて世界の流れというか風向きというかを感じ取ってきたなかで、一応客観的に積み重ねたものと、氏のことばの裏にありそうな客観的事実のようなものがけっこう合致するような気がした。
うまくいえないけれど、はじめて見た景色には思えなかった。あれ? この場面、どこかで見たかな。の感じ。
大恐慌の可能性。恐慌のあとになにが来るのかはわからないけれど、可能性はあると思う。
軍靴の音。これもどこかで聞こえたような気もする。グルジアとか。
これはどちらもわたしにはどうにもできないことだ。そうなったときどうするか、そうならなかったときどうするか、くらいしか考えられない。でも考えておこうと思う。
金融不安が社会不安になって、普段の生活にも影響が出る。そこまで行けば、さすがにじっとしていられない人も出てくる。どうすればいいのか、識者の意見を聞こうとする。わたしもその例外ではないらしく、この数週間はごちゃごちゃと読み漁った。本とインターネットと。
ここで話をインターネットで読めるものに限ると、いちばんぐらぐらと揺さぶられた気がしたのは、これだった。
とあるヴェンチャ・キャピタリスト(フレッド・ウィルソン)の深い思考。

When you are doing a turnaround, the number one thing you need to do is get everyone’s confidence back. You need to get the employees’ confidence back, you need to get your customers’ confidence back, and you need to get your shareholders’ and your lenders’ confidence back. You have to be honest about the mess you are in and be credible about what it’s going to take to get out of it.

方針転換をしようというとき、あなたにいちばん必要なことは、皆の自信を取り戻すことだ。従業員の自信を取り戻さなければならない。お得意様の自信を取り戻さなければならない。株主や貸主の自信も取り戻さなければならない。あなたがいまどういった困難にいるのか正直であること、そこから抜け出すのになにをすればよいのか確かめることが必要だ。
むむむ。
なんだか自分の身に起きていることの話みたいに感じる。いや、ここでウィルソンが言っているのはアメリカの政治と背中合わせになっているアメリカの企業の話だよ。でもなんだか太平洋越しというか、ニューヨークから東京までバウンドなしで球が返ってきたみたいな気分だ。ホームベースにいるキャッチャーになったような気分。へえ、センターからよく返ってきたもんだな。
まじめな話、記事の題名は「アメリカは方針転換の計画を必要としている」だけれど、具体的な計画の提案というよりも、これはアメリカ病(と呼べるならば)との対峙なのだ、それは皆が面している。そこを乗り越えるのに大事なのは自信であり、ものごとの順序であり、運命を自決することである、という励ましの言葉といったほうがよさそうだ。その励ましの言葉の論拠にウィルソンが使っているのは自分の身の回りで起きたできごとだけだ。小さな声で語られる骨のある宣言は、驚くべきことに投稿から1日を待たずに100近くのコメントを呼び寄せてしまっている。わたしはむしろ、この場に新しいアメリカがあるように思った。大統領候補になっている人がテレビ画面に向けて言った言葉も残るが、「とあるヴェンチャ・キャピタリスト」(A VC)とだけ銘打たれた地味なブログのなかにも、同じ耐久度で言葉は残る。

I don’t know squat about government and I’d be a terrible politician. I am not suggesting I could build the turnaround plan or execute it. But I am saying that is what we need. We need way more than change. We need our leaders to make some very hard and unpopular decisions that will get us to a place where we are once again in control of our own destiny. Because right now we are not in control of our destiny. And that’s frightening to me and most Americans.

わたしは政府のことはまるで知らないし、政治家などやったらひどいことになるだろう。方針転換の計画を立てて執行しよう、そうできると言っているのではなくてわたしは、それがわたしたちが必要としていることだと言っているのだ。変化よりも方法が必要だ。わたしたちが必要としているリーダーは、途方もなく人気もないような決断でもやりとげる、そうやってわたしたちが運命を自決できるような場所へ連れて行くような人だ。というのは、いまやわたしたちは運命を自決できなくなっている。それがわたしなどアメリカ人の多くを怖れさせているのだ。
と、ウィルソン。
わたしは政治はもちろん、経済のことはまったく無知で、ほとんどひと言も言えそうにない。ただこういった言葉が大きな協和音(あるいは不協和音)をたててあっというまに広がるのは、傍から見ていて(聞いていて)も爽快だ。深刻なことを語るときでも、その爽快さがある。これは何だろう、不思議な現象だなと思う。善いとも悪いとも思わないが、とにかく不思議で、爽快だ。
ただ、わたしがfinalventさんに対して思ったような感触はそこにはない。鏡像というか、あれなんでこの人おれの話まで知っているの、前にも会ったっけみたいなニューロンは連動しない。あるいは言語の違いだろうか。ひょっとしたら文章の刈り込みかた自体がそもそも違うのかもしれない。いずれにせよわたしも、氏もその境目あたりにいて、日本語で書いている。どうもここらへんが自分が分裂せずにものを言えるぎりぎりの崖縁かもしれない。まあただ、生まれた時代がだいぶ違うので歴史観などはむしろ合致しないはず。たぶん、合致していない。でもその合致しなさも含めた言語の包摂機能みたいなところでつながっているんだろう。だって、同じ言葉使っているんだもの。経済のことを言っているようでいて、じつは言っているのは言葉だから。そのあたりでときどき、周波が重なることがある。どっちかというと、日本語でブログ書く理由はそこにありそうな気がしている。たぶん、英語で語れないんじゃなくて、わたしたちは(うちらは)語ろうとしないのではないかな。
1930年代から40年代までの日本のことはあまり聞いたり読んだりしていないけれど、どうも議会政治がそっちに行ってしまったのも、その語ろうとしない姿勢にひとつ味噌がありそうな気がする。そんなこといったって勉強していないんだろと言われたら言い返せないけれど、わたしたちがこの現在の流れを生きるとして、ちょっとでも学べそうなことがあるとしたら、「語ろうとしない姿勢についてどうするのか」じゃないかな。そこはたぶん、ブログを続ける糧になりそうな気がしています。まだもうちょっと言っておくことはたぶん、あると思うんですよ。