「日本語が亡びるとき」を読んで(6)

単行本として完結した「日本語が亡びるとき」が今日、アマゾンから届いた。
ちょうど5分前ほどに読み終えて、ふと思い立って梅田さんのブログを見に行ったらなんと、梅田さんも一読後の所感を書かれていた。

なんと、インターネットの世界は驚きに満ちていることか。
たぶん、いま梅田さんはアメリカにいて、そこからブログを書き込んだのだと思われる。
その数分後には、わたしがそれを見つけて(ちなみにわたしはRSSリーダーをつかわない)おおお、とびっくりする。
しかも、それを書いてブログに公開したとたん、梅田さんに読んでもらえる状況になる。
それだけではない。
水村さん(日本に住まわれているのかわからないけれど)にも、読んでもらえる状況になる。
ものの1秒後にも。
読み終えた昂奮から、いま言えそうなことはこんな具合だ。
で。
まずいちばんに言わなければいけないことは、この単行本「日本語が亡びるとき」は、「新潮」9月号に掲載された冒頭3章とは、ぜんぜんちがう、とんでもない怪物である。
これを読む人、読まない人がいろいろなことばを発するだろう。たぶん、読まないで発する人のほうが多いはずだ。
その題名から多くの誤解がされるに違いないが、これだけは引用しておきたい。

思うに、自動翻訳機による翻訳は、いくら技術が進歩しようと、まずは原理的に不可能である。たとえば、ある文章が言っていることと、その文章が意味していること(saying one thing and meaning another)のちがいというものは、すべての言語の本質にある、言葉の修辞学的機能から生まれる。そして、書いた人間の意図と無関係に言葉だけを解読する自動翻訳機では、その修辞学的機能というものを理解することーーたとえば、ある表現が反語的に機能しているのを理解することが不可能である。ひとつの文脈のなかで「自動翻訳機で翻訳したとは大したもんだ!」というのが、皮肉だか皮肉でないかがわかるように翻訳するのは、どうプログラムしようと、ランダムにしかできない。皮肉が通じない人間もいるのだから当然といえば当然である。もちろん自動翻訳機で翻訳された文章は読む快楽を与えない。そして、読む快楽を与えない文章は文章ではない。

読む快楽を与えない文章は文章ではない。
これが、水村美苗さんの出発点であり、そこから外れた日本語が亡びるかどうかについては、この本には書かれていない。