2009年、やめることを先に決める

2009年という年がどういうものになるのか、たんと見当がつかないけれども何も言わずにいるのも落ち着かない。わたしなりに言えることを言っておこうかと思う。
わたしが苦渋の選択として、ここに決めたことがひとつ。
「自分の居ないところで語られる自分についての評判を知ること」をやめる。
理由はむだづかいだから。
なにがむだづかいか、というのは角が立つので差し控えたい。だがこれはいま言っておいたほうがいいだろうと、ある種の信念でもって思っている。すくなくとも、わたしにとってはむだづかいなので、これはやめようかと思う。
A VCというブログを書いているフレッド・ウィルソンが今年の抱負として、「もっとノーを言う」と書いていた。これは「やめることを先に決める」に等しいことだと思う。誰に対してノーを言うとは明言していないけれど、ウィルソンの心中にはなにかの基準があるにちがいない。ノーとイエスのあいだには、基準が必要なはずだ。その持ち合わせがなければ、意味のない宣言だ。彼なりの基準をきめた、ということなのだろう。
ウィルソンは毎日のようにブログを書いていて、それがたくさんの読み手を惹きつけている。そこに集まる人だかりについても、相当な自覚をもっているだろう。ブログの運営は多かれ少なかれ、集まる人だかりとのやり取りで成り立っている。ウィルソンの場合、ひとつの投稿に集まる人だかりはだいたい50から100といったところで、それは目に見えているコメントの数だ。目に見えないところには、もっと多くのコメントが存在しているだろう。いまわたしがここに書いているのもそのひとつだが、これをウィルソンがすべて読み通しているとしたら、相当な時間と労力だろうなと思う。ほぼ確信をもって、それは不可能だと思う。世界でいちばん多くの読者をもつブログの書き手のひとりとして、ウィルソンは自分の知ることのできる世界に、限界を設定していまの執筆活動を成り立たせている。そうでなければ体がもたない。体がもったとしても、心がもたない。なにかを書いて人前に差し出すことをつづける人は、べつだん超人ではない。ほとんどの場合、町を歩いている平均的な背丈の人と同じくらいの体力しかない。健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、人並みの体にはその限界を超えない程度の精神しか宿らない。自分の心の強さを過信するのは危険だ。
そういうわけで、わたしは自分の心の強さに見合った活動をつづけていくことにする。
やめることを先に決めることで、目の前に開けた景色がすこしだけ狭く見えるだろう。だがこれはなにも隠居するというのではないし、義理を欠くということがあったとしても、それは自分が受け止めればいいだけのことだ。とくに周りに迷惑をかけるつもりではない。わたしが求めているのは、奥行きをもった景色がすこしだけ、すこしずつでも遠くへ広がっていくことだ。
2009年という年がどういうものになるのか、くり返すとたんと見当がつかない。世の中が急に狭くなるかもしれない。急に広くなるかもしれない。インターネットの世界はますます細かい細胞分裂をくり返し、密度の高い人のつながりが24時間とだえることなく脈を打つのかもしれない。言語の壁もすこしずつ低くなるのかもしれない。誰かが大きなことを言うかもしれない。誰かが拍手をするかもしれない。誰かが野次を飛ばすかもしれない。それでいていつもその陰には、誰かが小さな声で語り、小さな拍手が起こり、小さな野次が飛ぶ。わたしはどこにいるのか。まだわからない。だがどこにいるにせよ、ここから出発するしかないし、ここがどこなのかは、小さなことでもなにか手に取って感じられる確かなものを、ひとつずつ集めていくしかない。大きな声で叫ばれることに、したがう必要はない。それはわたしの問題というより、かれらの問題なのだ。かれらにはかれらの声があっていい。わたしにはわたしの声がある。すべてはそこからはじまる。