自分自身でチャンスをつかんだ女性アントレプレナー

6年前、スタンフォードを経済学の学位を得て卒業したわたしは、多くの人が申し分のない職と認めるであろう仕事を得た。わたしはとある高名な会社で経営コンサルタントになった。そのオフィスはサン・フランシスコ湾を眺められ、新しく輝くシンクパッドが稼働していた。
同僚の多くは知的で野心にあふれ気さくで、わたしはフォーチュン500企業の重役と仕事のやりとりをしていた。福利厚生は無料コンサート・チケット、スキー旅行、高級ディナーなどがあった。3年勤めればわたしは十万ドル以上の収入を得る見込みだった。それは、スタンフォードの仲間たちと一緒に目指してきた、恵まれた人生だった。
で、どうしてわたしはハッピーじゃなかったのか?

この夢の生活のなか6か月たってみると、わたしの毎日の暮らしは満足とはほど遠いものだった。わたしは毎日14時間働き、その時間のほとんどが、パワーポイントのスライドに四角いボックスを配置し、箇条書きの文句をああでもないこうでもないと考えあぐねることだった。
この若い年で、消耗な仕事をしているのは間違いであるように思えてきた。わたしは毎朝今日することにわくわくしながら目覚めたかった。なにか自分自身でイチからつくっていきたかった。
わたしがコンサルティングの仕事に就いたのは、MBAをうまく得られて、いつか自分の会社を始められたらという目標があったから。その当時、わたしは経営コンサルティングは自分のビジネスをいつか始めるのにはベストだろうと思っていたが、まもなくわたしはコンサルティングからは単によりよいコンサルタントになる方法しか教われないことに気づいた。
そこでわたしは、ヴェンチャー・キャピタルならアントレプレナーシップへのよりダイレクトな道のりではないかと考えた。そしてわたしは6か月勤めたコンサルタントの職を辞してシリコン・ヴァレイのヴェンチャー・キャピタルに入社した。
結局そこでは6週間しか続かなかった。アントレプレナーの世界にはたしかに近づいたのかもしれないが、自分がアントレプレナーになるのに近づいたわけではないことがわかったのだ。しかも悪いことには、仕事は前よりも苦痛に満ちたもので、勤務時間もさらに長いものだった。
ここでのわたしの仕事はリストを洗い出し高収益の企業にかんする業界リポートを読み、その首席経営執行役員に電話をすることだった。CEOと直接対話ができれば、わたしのポイントはあがっていく。そのうち、相手方と自社のパートナーとの会見をどれだけスケジュールできるかによってわたしは評価されるようになった。そしてその会見から商談がまとまれば、わたしはカネを稼いだことになる。要は、わたしはセールスウーマンだった。
セールスは、アントレプレナーシップの主要な側面で、はじめはこの仕事に魅力を感じた。それが、数週間自分の情熱があるわけでないものを売り込むのをつづけたところで、ヴェンチャー・キャピタルでの仕事はわたしが思っていた恵まれた人生とは違うことに気づいてしまった。
転職ではわたしの問題は解決されなかった。真実は、わたしは既存の仕組みのなかで働くことが嫌いだということだった。ボスがいて、誰かのつくったもののために働き、一日中オフィスに座っていることが嫌いだった。そこではわたしの時間はわたしのものでなく、それはみじめであった。あと1日であってもわたしは我慢できなかった。そこでわたしは職を辞し、自分でアントレプレナーになることを決心した。
ボーイフレンド(いまでは夫)であるパラグ・コーディアと協力し、わたしは家族や友人から資金を調達し、自分のテクノロジ企業を始めた。それはソーシャル・ネットワーキング・サイトで、200万人のユーザにまで発展した。そこでわたしは後ろを振り返ることはまったくなかった。たとえ、会社に収益が上がっていなかったとしても。
昨年、パラグとわたしは「クッシュ」社を設立した。これはアイフォーンの音楽アプリケーション「ラディダ」をつくる会社で、いわば逆カラオケなるものだ。誰かが自分の歌をマイクに吹き込むと、それにバックグラウンド・ミュージックをつける。アイチューンズの音楽アプリケーションではトップ20に入った。
自分のスタートアップの首席経営執行役員として、わたしはコンシューマ向けプロダクトを土台からつくり、草の根のマーケティング・キャンペーンをつくり、投資者に自分のアイディアを売り込み、ネクスト・ビッグ・シングに思いを馳せることに日々を費やすことになった。(つづきを読む)