コーヒーと東京

タリーズコーヒーを日本に広めた松田公太氏の当選について書いたので、ついでにコーヒーのことも書いてみたい。最近コーヒーを飲めないという人に出会うことが少なくなってきた。ちょっと前まではコーヒーは苦手だから紅茶の飲める店に、という女の子が多かったような記憶がある。でもいつからか、スターバックスの持ち歩き用カップを片手に持って現れる女の子がちらほらと目につき、なにかの集まりで居酒屋を出たあと、「よーし、二次会いくか!」と誰かが言い出したところで「わたしたちはスタバ行くから・・・」とやんわり断るグループもいて、自分は二次会、三次会までつきあうほうだからけっこうがっかりしていた。というのはもう10年前くらいの話なんだけれど。
あれから10年、お酒を飲めないという男の人に遭遇することが多くなってきたように思う。それはそれでひとつの体質だったり習慣だったりするので、人それぞれでいいと思う。だが前にくらべてお酒を飲めない人が増えたということは、「つきあい」のありかたも変わっているんだろうなとふと思う。わたしは人付き合いがあまり活発でないので、実際のところどうなっているのかはよく知らない。会社帰り、仕事がひと段落ついた週末あたり、「○○くん、今夜空いてる? よかったら一杯どう?」と誘いかける人は、たいていはお酒を示唆していると思うけれど、これがコーヒーだったら誘われるほうの感じ方も変わってくるだろうなと思う。お酒にまつわるあれこれが煩わしいという人でも、コーヒー一杯なら別にいいか、と軽く受け入れることもありそうな気がする。
そういうとき、ドトールコーヒーマクドナルドよりは、スターバックスタリーズのほうが何かしっくりくるよな、ということを思った。自分の知っているかぎり、10時くらいまではこの手のコーヒーショップは開いている。仕事上がりに一杯飲んで、10時で閉店だからそれでお開き。まあ、悪くない。そういう習慣はどの程度ビジネス界の人たちに浸透しているのだろうか。
自分の経験から言うと、閉店までコーヒーショップに粘ったことはない。だが帰りの電車に乗る前、一息つきたくてコーヒーショップに入って何か気持が晴れたという経験は何度もある。それも、ちょっと空いてきたコーヒーショップがいい。午後のピークの時間帯を過ぎて、ちょっとした打ち合わせや談笑に使う人たちがはけていった後、疲れを癒すために独りで一杯飲みにやってくる人たちの作り出すほどよくくたびれた空気。白熱灯の温もり。ほろにがいコーヒーの焦げた匂い。お酒に酔うのではなく、コーヒーの作り出す空気に酔う。それも、ピリッとした緊張感ある店内ではなく、山場を超えたゆるい感じの店員がそれぞれ残りの仕事をこなしている、そんな時間がいい。もう今日の売り上げは達成したかな、というあたりがちょうどいい。
タリーズとかは、そういう時間を過ごすのにいいよな、と思う。あまり人通りのはげしくないところに店があって、かといって寂しい郊外店舗みたいな無機質さもなくて、適度に人の出入りのあって、人の汗の蒸発する匂いがする店内。汗臭いのはしんどいけれど、空調の行き届きすぎた店というのはかえって居心地がよくないし、かといってエアコンにカビが繁殖する匂いの消えない店もつらい。タリーズって、そのバランスがすごくうまいと思う。
今日は、タリーズもいいんだけれど、自分が前よく通っていた店のことを思い出した。そのコーヒーショップは青山通り骨董通りの交わる交差点にあって、1階が花屋さんだった。大学を卒業した年に出店してきた店で、カナダの店を日本に展開させているとか。その店は大学院に在籍していたときから、社会人になってからもしばらくずいぶん通った。スターバックスタリーズと同じように、注文に応じていろいろなコーヒーを作ってくれる店で、若い店員の声が元気に飛び交う、活気ある店だった。だいたいにおいて繁盛していて、2階の店ということを考えてもかなり経営はうまく行っているほうだと思う。平日は近くの大学やオフィスから絶え間なく客がやってきて、昼前から夕方までは満席ということも多かった。わたしはたいてい窓越しに通りを眺めるカウンター席に陣取って、ただのコーヒーをテーブルに置いたまま、読書にふけっていた。本を読むのが好きだけれど、図書館で本を読むのが苦手なわたしにとっては、とてもありがたい席だった。カウンターに座るのは連れのいない一人客が多く、それほど長居しないので、それをいいことにわたしは居座り、外の景色を独り占め(というか)していた。コーヒーは260円あたりだったか、量を考えれば安く、その後値上げもあったけれど納得のいく価格だった。
わたしはその頃片道1時間半の長距離を通っていたこともあって、一息つくことのできる場を切に求めていた。これがあるのとないのとではずいぶん大きな違いだったと思う。帰りの電車はもちろん混雑していて、座れることはまずない。一日の疲れを癒すちょっとした時間が、次の日の活力につながることをつくづく感じていた。その店は、スターバックスタリーズの細やかな気配りはなかったが、適度に放っておいてくれる大雑把さが、かえって心地よかった。べつに味も悪くなかったし、こっちはそれ以上のことを求めていない。かといってドトールやプロントには長居したくない。そこをうまく満たしてくれるのがその店のよいところだった。
顔なじみになって行くたびに挨拶してくれる店員さんもいた。でもそれ以上に親しくなることもなく、こっちは本を読んで知的な刺激を得て帰りたいだけだからそれでよかった。帰りの電車では、ずいぶんといろいろなことを考えた。片手に本を持てないことも多かったから、コーヒーショップで読んでいた内容を反芻しながら、あれやこれやと論文のタネになりそうなことを思い浮かべていた。
それがつづいたのは4年か5年くらいだったろうか。いまとなっては昔のことで、店に行くこともすっかりなくなった。コーヒーショップに2時間粘るということもなくなった。それでもやはり、あのとき積み上げた知識というか読書量というか、生半可で無愛想な学問の蓄積はいまでもわたしの財産といえるような気がする。
18世紀のロンドンに雨の後のタケノコのように出現したコーヒーショップが庶民の学問の地、議論の部屋となったことを思い出す。20世紀初頭のパリのカフェでサルトルボーヴォワールが知識の共謀関係を結んだことを思い出す。そこには系統だった学問の追究もなく、師匠を共有する弟子同士の縄張り争いもない。生半可で、無愛想な学問の蓄積。
いまでも気がつくと、懐かしいこの店にそっくりな別の店を探し求める自分がいる。六本木、神谷町、西新橋、銀座と歩きながら探してみたが、それは見つからなかった。丸の内、秋葉原、神田と足を伸ばしても、やはり自分にぴったりくる席は見つからない。この巨大なカオスである東京のどこかには、自分の探している店があると思い込んでいるわたしは、見つかるまで探しつづけるのだろう。
スターバックスが高速道路のサーヴィスエリアに進出してから、わたしのなかでは何かが終わった。タリーズが郊外のモールに見かけられるようになってから、見えなかった瑕疵が見えるようになってしまった。それは誰のせいでもなく、この世はそうやって動いているのだと思うし、それでいいのだと思う。だが自分の居場所がどこにあるのか、それが見えにくくなってきた。日本人にはなりきれないのだと悟った松田氏がタリーズコーヒーの輸入に人生をかけたのと同じように、わたしもどこか所在なさを感じながら、自分の人生をかけるべき何かをまだ探している。松田氏はある意味コーヒーを卒業して、議員の道へ進んでいった。わたしはコーヒーを卒業しても行き着く先が見えない。ネット? シリコン・ヴァレイ? ニューヨーク・シティ? シャンハイ? ホンコン? シンガポール? うーん。自分には東京というカオスがいちばんしっくりくる。このカオスには何かの連続する数式みたいな法則があるように見える。だが見えそうになったところでその法則はくつがえされる。ちゃぶ台返しのように。誰かがやってきて、ひっくり返していく。タリーズの松田さんもそのひとりだった。どこか目立たないところにいた人が、かならずやってきてちゃぶ台返しをするのだ。それはたいていの場合、予測不能なところからやってくる。そろそろ東京には新しいちゃぶ台返しがやってきそうな予感がする。でもそれが何であるのかはもちろんわからない。コーヒーではないだろうという気はする。でもコーヒーと多少なりとも関係のある何かかもしれない。東京は世界中の酒を集め、20歳から70歳までの膨大な男女がそれを消費した。東京は酒を必要としていた。2010年をまたいで、こんどの東京は酒を必要とするよりも、なにかべつの何かを必要としつつあるのではないか。そんな気がしている。コーヒーかもしれないし、コーヒーじゃないかもしれない。