ぼくにインターネットの世界を教えてくれたひと(3) 佐々木俊尚さんと『諸君!』

個人的なきっかけで、個人的に『文藝春秋』『正論』『諸君!』といった保守系オピニオン雑誌を読み始めたのは2006年のことだった。なぜ読もうと思ったのかはよくわからない。とにかくぼくは書店に行って、文芸雑誌の並ぶ棚の前に立って、指でなぞりながら目当ての雑誌を探して、そのまま『正論』と『諸君!』を手にとって、パラパラと数ページめくっただけで買うことを決めた。そんなに高くないし、そんなに重くない。電車で読むのにちょうどいい、とかそのくらいの理由だったのかもしれない。
なぜ『論座』は手にとらなかったのか、『すばる』は? 『群像』は? 『文学界』は? と聞かれると困る。ぜひ聞かないでそっとしておいてほしい。とくに悪気はないのだ。
読んでみたらおもしろかった。というと笑われるだろうか。でも、ぼくには冗談抜きでおもしろかった。これはたぶん、ほかの人にはそう簡単には当てはめられないだろうと思っている。むしろつまらないと感じる人が多いほうが安心する。ぼくがあのとき、手にとって読んだ『正論』はおもしろかったのだ。それだけのこと。それ以上の含みはない。
いつのまにか、書棚に並ぶ『文藝春秋』『正論』『諸君!』が横に並んで入りきらなくなった。ぼくは古い新書や雑誌を書棚から出して、そこに入りきれない『諸君!』を入れた。ペラペラと軽くて薄いその雑誌はするりと空いたスペースに身を滑り込ませた。そう、そこが君の居場所だよ、『諸君!』。
さて、夏のことだったろうか。ぼくは部屋でパソコンと向かい合っていた。だが午後の日差しが暑くて、屋根裏部屋ともいえる自分のアパートの一室は蒸し蒸しとして汗が止まらない。椅子に10分座っているとお尻がじわじわと湿気を帯びてくる。夕方に風呂に入らずにはいられない東京の屋根裏部屋。どこか涼しいところはないだろうか、そう思って素足でパタパタと家のなかを歩きまわる。そうだ、北側に小さな窓があることを忘れていた。開けてみよう。
おお、これは涼しい。どうして気づかなかったのか、北側は日差しも当たらないし、隣の建物も同じ4階建てだから、窓を開ければそこは屋根。いい風が入ってくる。よし、ここで本でも読むか。
窓辺に立ったまま、ぼくは本を読むことに決めた。軽い本がいいな、飽きてもいいやつ。そうだ、これがいい。表紙を見ると、このような文字が躍っていた。

文藝春秋のオピニオン雑誌『諸君!』2007 9 September 特集 朝鮮半島発「怪しい気配」特集 「中国=人権偽装帝国」の闇

おお、これは暑苦しい。まあ、でも選びようがないし、これでいい。読もう。パラパラ・・・。
あれ? 佐々木俊尚? なんだか聞いたような名前だな。
「ネット論壇時評 小沢一郎の走狗になってコテンパン 2ちゃん管理人が仕掛ける動画サイトは「愚民」の証明か」
へえ。「新連載」ってある。「2」ってことは先月からか。あれ、先月は買っていなかったんだな。

というわけで、佐々木俊尚さんの連載を読んだのです。たぶんこの記事の事実紹介の部分は「小沢一郎 ニコニコ動画」あたりのキーワードで検索すればいいと思います。それでぼくがおもしろく読ませてもらった部分だけ。

ニコニコ動画の特徴は動画の画面上に人々がコメントを書き加えられることにある。小沢代表の動画には数千もの書き込みが殺到し、しかもその多くが小沢代表やニワンゴに対する批判だった。

しかし批判が最も激烈だったのは、運営会社のニワンゴに対するものだった。同社が「コメント投稿を監視し、荒らし落書きなどは削除やアカウント停止にする」と宣言し、実際に投稿を削除したことに対して、猛反発が巻き起こったのである。

コメントの削除基準が明確でなく、小沢代表に批判的なコメントの大半が削除されてしまったことも、反発に拍車をかけた。小沢代表の動画にはコメントが書けなくなったため、利用者たちは2ちゃんねるや他の掲示板に流れた。

この件について、佐々木さんはニワンゴが利用者に対して発表した事情説明を全文引用している。そして、それに解説を加えて、このように書く。

運営者の落胆ぶりがよく伝わってくるメッセージで、これだけを読めば、悪いのは「悪意をぶつけあう」ことを選んだ「みなさん」の側に見える。
しかし、本当にそうだろうか。
ニワンゴのメッセージから読み取れるのは、運営側が「暖かい心でお互いにふれあいたい」世界をインターネットに作りたいと考えており、「お互い罵りあう殺伐とした場所」「他人に悪意をぶつけあう世界」は望んでいない、という理念である。
しかしながら、この崇高な理念は、実現不可能な牧歌的理想論でしかない。

さらに彼の持論らしきことがしばらくつづいたのち、具体的な理想論者として、ふたりの人物を挙げる。

そうした牧歌的なインターネット論は、長くネット社会論のメインストリームであり続けている。たとえば公文俊平多摩大学情報社会学研究所所長が『情報社会学序説』(NTT出版)などで説いた「智民」の概念や、(中略)あるいは最近の例で言えば、『ウェブ進化論』(ちくま新書)で梅田望夫氏が描いたバラ色のインターネット社会論もその範疇に収まるといえる。

なるほど。これが佐々木さんの自分の立ち位置の表明でもあるのかな。だがそのあとが気になる。

その一方で、インターネットの世界の外側に位置する知識人たちの間からは、ネットの世界が「悪意の氾濫する世界」「人間性を崩壊させる」として激しく攻撃されることが少なくない。その好例が、評論家の柳田邦男氏だ。たとえば『壊れる日本人――ケータイ・ネット依存症への告別』(新潮社)

と、ここまで読むと、ぼくの関心は急激に色を失ってしまう。これって、佐々木さんの書いた文章なの? ええ?びっくりだなあ。
佐々木さんの事実の背中にぴったりと吸い付くような文章は夢中で読ませる。だけれど、この最後の一節だけは、どうしてもほんとうに佐々木さんが書きたかった文章なのかと疑わしく思えてしまう。編集者は誰だ? みたいな。しかも毎日新聞の宣伝までちゃっかりしている。
ぼくはこのあたりで、ジャーナリストというのは世知辛いなあと思ってしまった。そう、ぼくは2007年の3月に産経新聞にエントリシートを送信したという過去がある。途中までしか書けなかったのを無理に締め切り間際に送信したものだから、当然ひっかかりもしなかった。それはそれでいい。だが、8月になって「ああ、これでよかったのかもしれない」と思った。参議院議員選もぼくの予想と大きく外れた結果だった。そのあたりはぼくには語る文脈も資格もない。だが、佐々木さんというジャーナリストを自称する人から出た言葉がこれ。知識人? なにそれ。柳田邦男? ああ、たしかに知識人だなあ。佐々木さん、すごいっすね。
finalventさんのこの日記にこめられた毒には、なんといえばいいのかわからないけれど、身体的にうなずいてしまうものがある。ぼくも自分自身の問題として考えようという気持ちになる。だが、佐々木さんの『諸君!』連載からは柳田邦男を読もうとは、どうしても思えなかった。
自分でやるしかないという気持ちは、ここでひとつ強くなったように記憶している。

諸君 ! 2007年 09月号 [雑誌]

諸君 ! 2007年 09月号 [雑誌]

佐々木さん、ありがとうございます。もう少し考えてみます。