石井裕さんの「テレビの未来」から「限られたアテンションのバンド幅」にふと思う

石井裕さんのMacPeopleへの寄稿をASCII.jpで読ませてもらっている。今回は特別に強い印象を受けたのでメモしておきたい。この記事は「私の家にはテレビがない」という文章から始まる。そしてわたしがもっとも感銘を受けたのが「知的生産の現場であったオフィスで創造的な仕事をしにくくなっている」のくだりだ。

いま最も枯渇していて貴重な資源は、もはや情報ではなく、人間の「注意」(アテンション)だろう。情報はふんだんにあり、良質なものをふるい分けるメカニズムもだいぶ整って来た。一方で、いま最も不足しているのは、我々自身のアテンションである。
 かつて知的生産の現場であったオフィスで創造的な仕事をしにくくなっているのも、雨霰のように降る電話や電子メール、そしてフェース・トゥ・フェースの打ち合わせによる「中断」が、連続的な深い思考を妨げているからにほかならない。そのうえ、マルチタスキングが進めば進むほど、限られたアテンションのバンド幅をどのようにやりくりして複数のタスクに割り当てるのか、その制御を行うのかが、最も大切な課題になってくる。
 そのような世界で、テレビがユーザーのアテンションを何時間も独占するメディアとして存続し続けることは、もはや不可能である。

これは言われてみれば、わたしの状況にぴったりと当てはまる。私の家にはテレビがない。エコーというか、わたし(駒田)の家にもテレビがない。それについて多くを語るつもりはない。それよりも、人間の「アテンション」をコンピュータのマルチタスキングに当てはめて語る文体に新鮮な感動を覚えた。「知的生産」はわたしにも深く関係のあることばだ。だが知的生産に必要なのが「アテンション」だということは言われてみるまで気づかなかった。だが思い返せば、石井さんの言う「限られたアテンションのバンド幅」ということばの意味するところが具体的に思い浮かぶ。それも洪水のごとくやってくる。そう、たしかに自分はいつでも、この「限られたアテンションのバンド幅」をやりくりするために単独行動していたように思う。学校でも、職場でも。それもたぶん、周囲から疎ましく思われるほど単独行動に固執していた。どこで決意したのか、それはわからない。だがその行動はたしかに意識的なものだった。フランクに言えば、「マイペース」というあたりで微笑ましく済ませることのできる水準だったと思う。「駒田くんは、マイペースだからねえ、ハハハ。まあがんばりなさい」といった具合に。いちおう、これでも27歳になるまで、所属する場所がたしかにあった。だが考えてみればわたしは「限られたアテンションのバンド幅」を散逸させてはならない、分散させたくないと繰り返し自分に言い聞かせていたように思う。そう、自分の性能を限界までオーバークロックというか、ハックしてボトルネックの解消につとめてきたのだ。もちろんわたしの脳はCPUではないので、限界は知れている。どちらかといえば、問題の本質はインターネットとテレビのせめぎあいなのかもしれない。コンピュータだけではそこに向かい合う人間の限界を大幅に押し上げることは困難だろう。インターフェースの問題が大きく関わるからだ。人間は両手と両目と両耳のインターフェースを基本として知的生産を行なう。どれだけ技能のすぐれたプログラマでも、自分の思考に追いつく速度での両手のキーボード入力は不可能だろう。人間の思考回路はマルチタスキングだが、キーボードはそうではない。それから画面上にある文章を読み取る両目の認識できる範囲も限られている。それからニコニコ動画小飼弾さんと伊藤直也さんの対談を聞きながらYouTubeベートーヴェン交響曲第7番を聞くくらいならできるかもしれないが、それに茂木健一郎さんの「プロフェッショナル」の放送が加わったらさすがに限界だろう。しかも聞きながら自分のブログを書くなどといったマルチタスクに長時間堪えるほど、人間の脳はタフにできていないだろう。わたしは人と較べてマルチタスクに弱いと自覚している。だから自分の脳の中身はウェブに預けようと思って、それを実行している。これが非常に有効だということに気づいたのはいつだろう。たぶん、はてなだろうと思う。梅田望夫さん、近藤淳也さん、伊藤直也さんのブログを読んでわたしは影響された。それをブログに書いて返せば、そこにさらに何かが返ってくる。はてなスターはてなブックマーク。このシステムがあるおかげで、自分のブログにも多くの感想をいただいて、それを読んだうえで前に進むことができるようになった。ありがたいことだ。
石井裕さんの言う「限られたアテンションのバンド幅」が、今後増えていくのかはここで語られなかったように思う。わたしは今後10年間くらいで、インターネット世界、ウェブ進化によって大幅に増えるのではないかと期待している。それは幻想を売るというようなものではなく、いまここにあるからだ。