ウィンドウズ・サバト、あるいはマックという非言語コミュニケーション

ちょっとしたきっかけで、昨日からウィンドウズ・サバトをしている。
ふだん翻訳をするときは、G31とE8200で作った静音マシンにVista Ultimate 64bitを入れて、24インチのEIZOディスプレイを目の前にでんと置いて、FUJITSUのKB322キーボードと、Logicoolのワイヤレス・レーザーMX620をあわただしく往来しながら作業している。24インチの画面だと左でインターネット(Firefox)、右でテキストエディタ(メモ帳)という使い方が無理なくできる。昨日ブログから離れてみて思ったのは、これがなくなったら翻訳ができなくなるのではないか、という心配。
実際24インチ画面はいい。17インチから24インチに代わったときインターネットの見え方がずいぶんと変わったものだ。とくに日本語のウェブ・ページは英語よりもフォントが大きいので、画面が広いと助かる。それに加えてVistaのフォントはXPよりひとまわり大きくなった。わたしはひそかにこれが気に入っている。文字が大きくはっきり視認できるというのは作業効率に直結する。Firefoxであちこちインターネットを飛びまわる間じゅう、キーボードのCtrl+やAlt+といった手順を多用しているので、これもわたしがウィンドウズから離れられそうにない理由のひとつになっている。だがほんとうにそれでいいのだろうか? ほかの世界をもう少し開拓してみたら、ウィンドウズのない世界でもけっこう生きていけるのではないか? ほら、マックブック・エアなんかもタッチパッドがずいぶんよくなった。iPhoneが今年後半に日本で使えるようになるという話もある。
そこでちょっと古いけれどiBook G4だけでしばらく過ごしてみる実験をすることにした。24インチ画面にはつながない。14インチのXGA解像度でなんとか乗り切る。週末だから日本語と英語のページを同時に10個以上並べてブログ書くこともないだろう。
率直な感想。ウィンドウズとは頭の使い方が違う。
なぜだろう、この感覚。理由はよくわからないけれど、とにかく頭の違う回路を使っているような気がする。それも長く使えば使うほど、そんな気分になってくる。けっこう文章が湧き出てくるような感覚がある。ただ、そのような勢いで書きなぐった文章は、半分以上書き直す、あるいは削ることになった。これは少し冷静に考えてみると、単純に週末だからとか、そもそも仕事が違うということなのかもしれない。
ウィンドウズについていえば、平日の日中スピードが求められる速報の紹介は効率至上で進むことが多い。どちらかといえば単純作業の繰り返しという感じがする。だがその命令に対してウィンドウズは忠実だ。Ctrl+の連続、F7の多用にしっかりついてくる。もたつかない。IMEもそれほど大きくは裏切らない。野球でいえば、あまり仲良くないけれど、しっかりボールを受け取ってくれるキャッチャーのようだ。だがあまり気持が通じているわけではなくて、変化球をあれこれ選んで投げようという気持にはならない。そのあたりお互い割り切りがある。
それがマックの場合、効率を求めすぎるとがっかりすることが多い。まずCPUが本当に仕事しているの? ちょっと中で居眠りしているんじゃないか、と疑いたくなるときがある。そんなはずはないのだが、どうしてこのタイミングで表示が中断するかなと思うことが多い。Firefoxとの相性なのか、Safariなら大丈夫なのかは検証していない。だが同じはずのFirefoxでもウィンドウズとマックではずいぶん挙動が違うのはごまかしようがない。メモリも一応512MBに増設しているし、タブも5つくらいしか開いていない。OSXは10.3.9だ。タイガーやレパードみたいに重たいガジェットも載せていない。ということは、ということは。うーん、理由がわからない。
それでもマックはいい。何がいいのか、と問われると困ってしまう。だが冷静に考えてみると、ひとつにはマックとのやりとりにおける「非言語コミュニケーションの割合」といえるかもしれない。これは使ったことのある人にしか実感として伝わらないだろうなと思う。ちなみにわたしのマックは英語でインストールされている。これは翻訳に役立つという功利的な理由もあるのだが、英語がわからなくても、べつだん困らないというからというのも理由だ。だいたい絵とか、並んでいる順番で想像がつく。言語を介さなくても通じ合える。だとすればマックとは究極の翻訳機械ではないか、などと思ってしまう。少なくとも、iPhoneはそういった方向性をとらなければ世界的な成功は厳しいだろう。ユーチューブだって、グーグルがもっとも不得意とする分野で抜け駆けしたからいまの地位がある。「非言語コミュニケーション」のツールとして、マックにはまだまだ先があると思う。
もうひとつには、マックが「キュート」だから、と言ってもそれほど厭がられないのではないか。今朝も妻と食卓でブログについて世間話をしていたとき、このiBookがふたりのあいだに居てくれた。ウェブ世界について具体的な話をしたいとき、実際のウェブ・ページを見ながら話すと話の広がりかたが断然違う。そのときにiBookの白いカタチはなかなか悪くない。パートナーに嫌われない、というのはノートブックの大きな存在条件のひとつではないかと思う。わたしにとって、白いiBookはありがたい存在だ。
マックがいい、ということはわかった。でもそれをウィンドウズを置き換えるものとして考えたら、それほど大きな気持にはなれないのではないか。
たしかに、マックで翻訳をタフにこなすという話になると、少し考え込むことになってしまう。まず「ことえり」では駄目だ、ATOKは必須だろう、とか。微妙に文字化けするページでは、マルのなかに入っている数字を一生懸命予測しなければならない、とか。
考えてみると、マックを使うときに面倒だなと思うことの大半が、「非言語コミュニケーション」以外のことだと気づく。だとすれば、iPhoneは日本上陸に失敗するのだろうか。それは予断を許さない状況だといえる。下手すると、アップルは日本を無視して、中国に夢中になるのかもしれない。それは十分ありそうな話だ。昨日と今日「英語で読むITトレンド」と『シリコンバレー精神』を読んでいたら梅田望夫さんも、シリコンバレーで成し遂げた仕事のひとつに、アップルの日本語対応戦略を挙げていた。それまでは日本は目立ってマックが売れない国だったのが、しっかり売れる国になったという話があった。だがそれは本物のタフなネゴシエーションから生まれた成果だろう。言語の壁という観点からいけば、それはまったく消えていない。英語と中国語のあいだには、構造的な類似がより多い。日本語よりも翻訳はかんたんだろう。グーグルも、なんだかんだ言って、中国政府と意思を通じているようなところがある。
わたしが考えているのは、動画以外でグーグルがもっとも苦労すると見込まれるのが「英語と日本語」の壁を越えることだ。これは断言してもいい。だからわたしはそこに挑戦することを決めた。グーグルが手間取っているあいだに、人力でできることを進める。というか、そうでもしないと不便でしょうがない、というのが実感だ。役に立つ情報の多くは英語から発信されている。それが「非言語コミュニケーション」へ容易に置き換えることができないのなら、力業(チカラワザ)でやってみるのも手だ。
その一方で、アップルはさらに「非言語コミュニケーション」の先鋭を思いっきりとんがらせて猪突猛進するだろう。インターネットの最終戦争というものがあるとしたら、グーグルとのあいだにおこることが濃厚だと、わたしは考える。というか、それに賭ける。アップルとグーグルのどちらが相手を呑み込むか? それはどちらでもいい。
というようなことを、ウィンドウズから2日間かんぜんに離れて、マックとやりとりしながら考えてみた。