はてなブックマークを一から作り直す、からフェースブックのBeaconを思い出す

伊藤直也さんが取締役を退任した、という話を知った。

京都に来てから、はてなブックマークを一から作り直しています。

詳しくはわからないけれど、naoyaさん、ぜひやってみてください。とくに理由はないけれど、何か生まれそうな気がして楽しみだ。
はてなブックマークについて、いくつか思い当たることを書いてみようかと思う。
現時点での特徴

これは多くの人が知っていることだと思うけれど、実は奥の深いことだとわたしは考える。というのは、ウェブ上で使うアプリケーションの使い勝手は提供者の裁量で決められるからだ。くだいて言えば、はてなブックマークをどうするのか、それははてなが決められる。そしてはてなユーザはそれに基本的に従う。それだけ大きな権力をユーザに行使することができる。わたしはここで価値判断をするつもりはないので、事実関係として見てもらえるといいかな。「できる」「できない」と言えば「できる」というのが実態に近いという意味で。
たぶん、はてなブックマークを一から作り直すとしたら、ここをじっくり考えるという作業を通ることになるのかな。
それはけっこうタフな話になりそうだ。
次に出てくるはてなブックマークは、大きな議論を巻き起こすことになる。そして、それはユーザに大事な決断を迫るようなものだとわたしは予想する。
どうしてそう思うのか。ひとつには、フェースブックの話が思い当たった。
2007年12月にBeaconの機能がプライヴァシ保護を訴える団体から非難キャンペーンを受けた(参照)のを思い出してみよう。この話はフェースブックの多勢に無勢というか、一方的にCEOのマーク・ズッカーバーグが謝らなければ収拾がつかないところまで話がこじれた(参照)。その謝罪文を読み返してみる。

わたしたちはこの機能を装備するうえで多くの過ちをしてしまいましたが、それよりもどのようにこれを運用するかということで多くの過ちをしてしまいました。このリリースについてはわたしたちがした仕事は誤っていました、わたしはそれについて謝罪します。

ズッカーバーグは謝罪文のなかで、機能の装備(実装)よりも、運用の点でミスが大きかったと認めている。どちらかといえば、Beacon機能を開発したこと自体は間違っていなかったのだろう。それはフェースブックがやらなくても、誰かがやっていただろうという意味だ。だが話の展開からすれば、フェースブックが誰よりも先にこの機能を世に問いかけた。そこで非難の矢がいっせいにフェースブックに放たれた。これが話の顛末ではないかとわたしは思っている。
一方、ズッカーバークがもうひとつ大事なことをここで語ろうとしている。それは機能としてのBeaconではなく、思想としてのBeaconだ。

わたしたちがはじめてBeaconを思い当たったとき、わたしたちの目標は人々が友達と異なるウェブサイトのあいだでも情報を共有することができるようなシンプルな製品を装備しようというものでした。それは軽快なものでなければならない、そうすればウェブを見ることを邪魔することもないだろう。なおかつ十分に明快でなければならない、そうすれば人々が気軽に情報を共有して利用できるだろうと考えました。

シンプルな製品。どこかで聞いたような言葉だが、誰が言い出したのか、わたしには思い出せない。グーグルなのかもしれないし、ネットスケープなのかもしれないし、あるいはスティーヴ・ウォズニアックなのかもしれない。
ズッカーバークがやったことは、多くの人の望むものをできるだけシンプルに提供するということだったようだ。
だが多くの人がとった行動は、フェースブックをおそれ、不安を近くの友人と小さな声でささやきあい、その不安が普遍的なものだとわかった途端、大きな声でフェースブックをののしった。
それでもズッカーバーグは、思い当たったこと自体が間違いだとは認めなかった。わたしはその一徹さに打たれた。なかなか見所がある、と思った。
そこで「人力検索はてな」で自分の考えをはかりにかけてみようと思って、質問した。

結果は、どちらかといえばわたしの思い違いだったようだ。あまり多くはないけれど、回答を見ると、次のような感想があることがわかった。

  • とくに見所があるとは感じられない
  • 謝罪して当然
  • この程度の謝罪で収束したのが不思議
  • 謝罪文ぽくない
  • 日本の形式の謝罪とは違う
  • 解決策の提示に意味がある

これがはてなユーザの平均的な考え方を代表するものだと仮定すると、次のようなことが導き出せるのではないかと思った。

  • 実装された機能が不評を買ったとき、謝罪するのはサーヴィス提供者の義務だとユーザは考える
  • 不評が大勢になったとしても、自分にはそれほど切実ではないと考えるユーザは一定数いる
  • そのうえで次に何が語られるかが注目される、その如何によっては信頼が増す

と、まとめてみた。これが正しいと言い張るつもりはなくて、あくまで仮定の話で、思考実験だと思ってもらえたらいいな。
思想としてのBeaconはズッカーバーグの言うとおり、軽快で明快、すべてをオープンにする情報の共有ということだろう。
たぶん、思想として語られただけでは伝わらなかったのだろう。インターネットは思想が大きな権力を行使できる。それだけに、迷惑な権力を行使するサーヴィス提供者もかんたんに生まれてしまう。ユーザから見れば、そんなことしてもらっちゃ困る、自分はそんな話聞いてないぞ、どこで公開していいと約束したんだ、という話だろう。それは無言であっても、多くの人の声に含まれているはずだ。
だが、考えればすべてをオープンにするというのは、インターネットが放っておけば向かっていく方向のはず。
とにかくウェブ世界が生まれつき進んでオープンになろうとする種類のものだということは、ブログを書いている人には身に覚えがあるだろう。自分の何の気もなしに書いたエントリが思わぬ反響を呼んだとき、書き手が感じるのはまず興奮、次に不安、そして恐怖だろう。どうしてそう思うのか。それはたぶん、自分の書いたものが、自分の手から離れてあっというまにオープンな材料になってしまうからだ。その「自分にはどうにもならない」という感覚がミソなのだろう。
そこで議論になるのが、匿名か実名か、という終わりのない問いかけ。
わたしはそれについて、ここで何か言おうとは思わない。
最後にまとめのようなもの。

  • フェースブックのプライヴァシ問題は、機能の実装じたいよりも運用にミスが大きかった
  • 機能としてのBeacon、思想としてのBeaconと分けて考えることの意味
  • 形式的な謝罪と解決策の提示は別もの
  • 大合唱のユーザの声の裏には、自分の意見を保留している人が一定数いる
  • 意見を保留するとは「どちらでもいい」と「信頼している」がその内訳
  • 騒ぎが収まるころに語られる次の言葉が信頼が増す機会かもしれない

つまり、失敗をおそれずに大胆にやっていいと思うよ、ということです。