合同会社設立209日目、朝

港区は曇天。土曜日。
昨日は少々翻訳をブログに載せた。
翻訳をするという作業は、「本を読む」「文章を書く」「人の話を聞く」という作業のどれにも当てはまらない。特殊な作業という気がする。しいていえば、それらを全部同時にしているといえば納得がいくような気がするけれど、よく考えてみるとそれもなにか違う。
ただ思うのは、翻訳をするときに自分が少しでも自分をよい人間にしようと試みている、ということだ。
これは意識的なものなのか、無意識的なものなのか、判明していない。これはほんとうに複雑な作業が頭のなかで行なわれているように思う。
たとえば会話をしながら相づちを打つという場合、「相手の言っていることからよいところを探す」「それを自分のことばに置き換える」といった作業を頭のなかで行なう。だが相手の言っていることをぜんぶ復唱しても、相手はそれほどよろこばない。なにが相手に響いたのか、判別しにくいからだ。それに自分が言ったことがぜんぶ当たりだと本人が思っているというのは稀だ。それよりも相手がどこで共感してくれたのか判別できるほうがいい。それが会話の特徴か。
だが翻訳では、「ぜんぶを自分のことばに置き換える」のが翻訳だと自然に思われている。それは相手にむける相づちとも違うし、自分で理解したことを文章にするのとも違う。どちらかといえば第三者にむけるものだ。それだけに自分の翻訳がもたらす効果に自覚的になる。誤解を招くような翻訳はしないようにしよう、できれば書き手のよいところを読み手に伝えられる翻訳をしよう、と気をつける。これは、かなりむつかしい。それでも、やればやるだけ自分のためになっているという気がする。
要するに、自分が書き手と読み手のふたりを少しでも幸せにしようと試みているわけだ。これはとても意味のあることだと思う。翻訳の世界がこれから大きく広がっていけば、それだけ多くの人が、多くの書き手と読み手を少しずつ幸せにしていく。それをテクノロジが後押しする。それがわたしの考えている行き先。