ブログと文字の文化では継承されない何か

こうした無形の知恵みたいな(足の指を自然治癒するような)、進化論的余剰というか、生死を繰り返して、いちおう僕にまで備えつけられた可能性みたいなものの重要さといのは、なぜかうまく文字の文化では継承されない。

今朝目覚めて最初に読んだブログに、こんなことばが出てきた。
finalventさん。
ポランニのことばに暗黙知というのがあるらしい。それを言い換えると、この引用のような文脈になるのかな。あまり詳しくないし、読めているのかわからないけれど、そんな気がした。
その、暗黙知にはけっこう興味を惹かれる。
インターネットの持ち込んだ最大の変化は、肉声を発しない人間の意思伝達ではないかと思う。
わたしはあまりあれこれ話すのが得意ではなくて、ほんとうに大事なことを相手に伝えたいときは、ほぼ例外なく行動で示している。自分にとっていちばん譲れないことっていうのは、たぶんことばでは相手に伝わらない。それはわたしが20代の大半を費やして学んだことだ。
それにもかかわらず、このあたりでは人が自分の場所をつくって、そこでなにやら話している。その話は肉声を発するものではなく、ほんとうはかたちをもたなかったような何かだ。これってふつうスターバックスでコーヒー飲みながら話すことじゃないよな、というような内容の、ことばづかいがこのあたりではふつうに行き交っている。このあたりというのはブログを書いているひとたちのいる場所ということだ。
ブログにこういった何気ないことを書き留めるfinalventさんは、率直に言って先進的だ。
何歩くらい先に進んでいるのか、わたしにはよくわからない。平均値をとるのがわたしも苦手だから、自信がない。だけれど、わたしよりも先に進んでいるのははっきりしていて、わたしが進もうとする先にはなぜかfinalventさんがすでに歩いている。道なき道に、足跡をつけている。
前の投稿で紹介した記事には、ブログの先になにがあるかといえばソーシャル・メディアがある、とか新しい検索エンジンのかたちがある、といったことが書かれていた。それはそのとおりだと思う。だが、ブログの先にあるものはそれだけではないはずだ。ブログというかたちには、相当これまでとは違ったものが土台としてあって、その土台ができあがってしまったので、それじゃ次、という話になりがちだけれど、わたしはそこで土台が終わりになるとは思っていない。個人が自分の場所として30年後も残せる場所があるとしたら、やはりブログなのではないか。そして30年後にも残せるのなら、つぎの30年もあるのではないか。そして、わたしは30年つづけたら、このfinalventさんの言う「無形の知恵みたいな」ものを、継承したという意味で、知識の殿堂において報われるのではないかと思っている。そしてそれは、このテーマの記事が検索エンジンの上位にひっかかったとかブックマークがいくつだったとか、功利的な基準とはかけ離れたなにか、かたちにあらわしがたい報酬となる。それはカネですらない。わたしよりも30歳若いひとには、わかってもらえるのではないかと期待している。