まだ手のつけられていないなにか

うまく書けるかわかりませんが、約束どおり「はてなブックマークとどう違うものが欲しいんだ」について書きます。
たとえば、夕食のあと、ちょっと落ち着いて座っていられる時間があるとします。ない人はお疲れさまです。それでたとえば1時間くらいなら座っていられるよ、という人もいれば朝まで座っているのもその気になればできるよ、という人もいることと思います。だいたいにおいて、前者の人がブックマークを眺めに来る人たち、後者の人がブックマークの陣取りをする人たち。そんな具合にわたしは考えています。あ、これははてなブックマークの話です。
だいたいにおいて、ソーシャル・ブックマークとは自由になる時間の多さが人それぞれ違うということによって成り立つ仕組みだと仮定します。
要は、ソーシャル・ブックマークで見つけられる記事は、誰にでも読める記事です。でも人によってそれを見つけるための時間がない、あるいは時間はあるけれど見つからない、といったことがある。情報の格差を埋める装置として、ソーシャル・ブックマークは機能している。ウェブ時代の読み書き能力とは情報の囲い込みではなく、情報の露天市によって取引できるものではないか。大学や新聞などは情報を囲い込みます。それによってそこに入った人に特権を与えることによって、そこにいる人の読み書き能力を組織化する。困ったら出し惜しみすればなんとかしのげる。しかしウェブでは、それができない。あるいはできたとしても、それはなんとかしのいだことにはならない。ウェブは放っておけば勝手に増殖する微生物のようなものだからです。出し惜しみをする者は生存競争から脱落する、というのがウェブの基本的なルールとして定着してきたのではないかと思います。
誰にでも読める記事だけれど、それを見つけられる人と、見つけられない人の差がある。だからソーシャル・ブックマークはなくならない。
そして、ウェブで情報が増殖しつづけるのが誰にも止められないのなら、ソーシャル・ブックマークはおそらく、いくらあっても余るということはない。これは検索と似ているのではないかとわたしは考えます。
それが前提にあって、はてなブックマークと違うなにかをつくりたい、という話になります。
それでわたしは時間の流れ、時間の持ち合わせといったことに目をつけて、考えます。
当たり前のことですが、確認しておくと

  • ソーシャル・ブックマークで飯を食うことのできる人はほとんどいない
  • 余暇でソーシャル・ブックマークをやる人のほとんどは、余暇を生活時間の大半にしつづけることは不可能

ということで、ほんとうにソーシャル・ブックマークで自分の限界を試すことのできる人はいまのところいない(だろう)ということを仮定します。
それでは、つぎの問い。

  • ソーシャル・ブックマークを使って、なにかの専門家であることを世に知らしめることはできるか?
  • なにかの専門家であることを知らしめることによって、なんらかの継続的な報酬をもらうことはできるか?

これはわたしにとって、いちばん興味のある問いかけです。どちらかといえば、わたしはこれを肯定的に見ています。それでは、どのようにすれば実現可能性がもっとも高いか。これはいままでのあらゆる金融システムでも思いつかなかったようななにかが必要になります。ふつうに考えて、金融の勉強をしてみても、答えの出ない話です。金融は理想、あるいは神の意思を実現するものとして機能したことがないので、人間が自分の利益を最大化するために動く個体だと仮定していて、銀行の通帳も、そういう土台に建っています。要するに、カネの勘定のうまい人には解けないものだということです。
ではどうするか? おそらくヒントは世界史のかなり前のほうのページ、あるいは多くの生徒が眠くなって聞き漏らしているようなページに隠れているのではないかと思います。ユダヤ人の勘定のうまさはよく知られていますが、その勘定のうまいユダヤ人にも気づけないようななにかが、かならずどこかに隠れている。でもそれは、見つけることのむつかしいものです。わたしにもそれがいったいどこに隠れているのか、さっぱりわかりません。しかし、それはどこかに隠れている。そう言い張る理由は、そうでなければ、ウェブは生まれなかったし、そしてウェブとは人間の生み出したものです。人間の生み出したものである以上、かならずそこには原因があり、原因をつきとめることは不可能ではないからです。
ソーシャル・ブックマークは、この世の知識の整理のうえでもっとも基本的な2つの柱の1つ「チョイス」を

  • 目に見えるかたちにする
  • 即時にアクセス可能なものにする

ようなものです。これは、グーグルが「サーチ」で行なったことにぴったりと重なります。そういうわけなので、グーグルがなぜソーシャル・ブックマークを自分でつくらなかったのか、という問いかけは考えてみる価値がありそうです。わたしが思うに、その答えのヒントは「人」にあるかもしれない。グーグルの検索結果は、人でくくって分類することができません。なぜなら、ウェブ上に書かれたものには誰の書いたものなのかを明確に分ける手がかりがないからです。そしてグーグルが検索で行なった発明には、それが必要ではなかった。ウェブのページをひとつずつ「誰のものか」と特定するのではなく、「どこにつながっているのか」と特定するだけで十分に情報の価値を見積もることができた。そしてそれは、グーグルなりの公平さについての考えにぴったりと合致した。「なんだ、人なんてなくてもできるじゃないか」と。それがグーグルの第一期の発見だったのかもしれません。それをページランクアルゴリズムと人は呼んだ。
さて、話を戻すとわたしはさきほど「サーチ」のふたごとして「チョイス」を挙げました。そしてチョイスにこそ、人間にしかできない、すべての人がそれぞれ違うということの実体がある。それを目に見えるかたちにするというのは、かんたんに見えて、そうかんたんなものではない。少なくとも、グーグルは「いますぐできることではない」と判断しているようです。
わたしは、はてなブックマークを使ううえで、あるときからいくつかのルールを決めました。

  • 記者を明記する
  • 記者が誰かの発言を引用しているのなら、発言者を明記する
  • 記者のはっきりしない記事は原則としてブックマークをつけない

このルールを決めて、そのうえで自分なりにできそうなことの限界をさぐってみる実験をしました。自分の興味をアメリカ西海岸のテクノロジに限定し、その経営者の発言にとくべつな敬意をむけるという実験をしてみました。それはある程度、おもしろくて継続する意味があるなと思えるものでした。しかしすべての経営者の発言がおもしろいわけではなく、経営者のおもしろい発言のすべてが記事にのっているわけではないという限界がどうしてもあるということに気づきました。これがもうすこし、敷居が低くなり、開かれていく可能性はあるか。たぶん、あるだろうと思いました。そして、多くの場合テクノロジの経営者は自分の発言を世に広めることに肯定的な考えをもっています。自分でブログを書いているジョナサン・シュワルツのような志の高い経営者もいます。
わたしがはてなブックマークを使っていて、もっとも歯がゆい思いをしたのは、はてなポイントという仕組みがあるにもかかわらず、その生殺与奪がはてなの手に閉じ込められているような気がしたことです。この仕組みはたぶん、もうすこしうまく使えるはずです。今後どういうことになるかは、ユーザが決めればいいことです。しかし、現在のやりかたではそれがいまひとつ生きていないというのはわたしが強く感じたところです。
それ以外のよく言われている問題点の大半については、わたしにはとくに問題とは感じられませんでした。非常によくできた、敷居の低い、開かれた場所だと思います。
「チョイス」について、これからできることがありそうだ、ということをわたしは考えました。そして専門家として認めること、継続的な報酬をわたすことに大きな意味があるということを考えました。そのための土台としては、グーグルがまだ手をつけていない、未知の「あらゆる金融システムでも思いつかなかったようななにか」を世界史のなかから見つけ出すことになるだろうと考えました。そして最後にわたしがグーグルが手をつけていないなにかにいちばん近いと思っているのは、フェースブックです。マーク・ズッカーバーグのこのことばが、頭に残って離れません。

ただ僕らが見据えているのは、あくまで「人」です。大切に思っている人と、その人をもっとよく知りたい、そして共有したいと思う気持ちが大事で、まずは人ありきなんです。