合同会社設立328日目、朝

港区は曇天。
土曜日。
今朝の産経ウェブ版に、梅田望夫さんの「ウェブ立志篇」が寄稿されていた。

ところでここ1週間ほど、オリンピック中継を見ては、ある刺激的な論考を読み、その意味を考える日々を過ごしていた。その論考とは、「新潮」9月号に発表された水村美苗の「日本語が亡びるとき−−英語の世紀の中で」(280枚の長編評論)である。

わたしはまだ読んでいませんでした。これから入手して読みたいと思います。

「叡智(えいち)を求める人々」による「書き言葉」は、すべて「普遍語」たる英語になってしまう未来を想像し、警告するのである。

たしかに、英語はどこの国の言葉だったのか、もう考えても仕方ないくらい、つまり「本家さがし」には意味がなくなっている気がします。少なくともこれからの未来を生きるわたしたちにとっては。
要するに、知の集積という目的に最適化されたインタフェースがあれば足りる。ではどうするかといえば、コンピュータの言語の中核には英語があるので、やはり英語を土台に普遍語を構成していくのだろうと思います。

「知的に幼い日本語圏ネット空間」と比べ、知の圧倒的充実が進む英語圏ネット空間の在(あ)りようは、私たち日本人にとっての厳しい現実である。水村論考は、特にこれからの日本の若い世代が、母語である日本語と「普遍語」たる英語といかにつきあっていくべきかを考えるうえで必読だと思う。

これについては、どこまでが梅田さんの見解で、どこまでが水村さんの見解か判断しかねるので、まずは水村論考を読むことにします。