複数言語のソーシャル・ネットワーキング

ジェフリー・サックス『コモン・ウェルス』を読んで、梅田望夫さんはソーシャル・ネットワーキングが果たす役割について書かれていることを指摘していた(参照)。そこでわたしも『コモン・ウェルス』を注文して、さっそく届いたので読んでいる。ソーシャル・ネットワーキングの話はどこに出てくるだろうか。
マイスペースフェースブックスカイプの話が見つかった。あんがい、すぐに見つかった。
すぐに見つかったのだが、問題がひとつあった。
話にうまくついていけない。というのは、わたしに問題があるのだけれど。
どうも話の流れからして、恵まれない人、弱い立場にいる人を救うにはどうすればいいか、という文脈で語られているらしいということだ。そのためにテクノロジ(サックスによると「コミュニケーションズ・テクノロジ」)をどのように使っていくか。それを考えるために、たとえばビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団の話が出てくる。
どうやらサックス教授の話に深く同感するには、自分自身がお金の不安から解放されていることが前提になるようだ。住むのに困る、食べるのに困るという人ではなかなか話についていくのは難しそうだ。
ちなみに、わたしが食べるのに困っている人だと言いたいのではなくて。
マイスペースにしても、フェースブックにしても、利用するのは無料でできる。インターネットに接続できれば、ほんのかんたんな手順で登録して、世界中の人と出会う場に足を踏み入れることができる。そこにはいろいろな人種の人がいて、つぎつぎと会話が交わされてにぎわっている。そこで自分も割り入って、話に加わることはかんたんなように思える。
ところが、なかなか実際には話しかけるのはむずかしい。考えてみたら、英語が母語である人がどんどん話を進めているから、ついていくのが精一杯だということに気づいた。サックス教授も、アメリカ生まれのアメリカ人だ(Jeffrey Sachs - Wikipedia, the free encyclopedia)。
日本語が亡びるとき」のなかで、水村美苗さんが指摘していたことを思い出した。普遍語とは、その普遍語を使っている本人にはよくわからないものだ、という指摘。多言語主義の立場をとる名著『想像の共同体』を書いた、ベネディクト・アンダーソン自身が、普遍語にかんしての思考が欠落しているというのだ。それは彼自身の母語が英語で、それが普遍語であることを忘れてしまっているからだ。そんな内容だった。
サックス教授も、英語が使える人を前提にしてソーシャル・ネットワーキングを例に挙げているようだ。
英語はたしかに、インターネットにアクセスさえできれば、そこらじゅうにあふれている。英語が母語でなくとも、接する機会はいくらでもつくれる。ユーチューブで英語の歌などは画面つき(ときには文字つき)でいくらでも聴ける。ウィキペディアを開けば、日本の漫画やアニメの項目もたくさんあふれている。英語が苦手とされる日本人の子供でも習うより慣れよでいつのまに覚えていたり、できるかもしれない。
だがその子供たちは、まだ成年になっていない。そして、その子供たちはなんとなしにインターネットから遠ざけられながら育っている。
すでに成年しているわたしたちはといえば、どちらかといえば生き残るのに精一杯だ。インターネットが普及したことによって、たとえば新聞なども自分の親が購読しているものを読めばいいのではなく、求められる常識の幅が急に広くなった。複数の新聞の報道や社説を読みくらべてものを言わないと、左だとか右だとか、偏っていることを非難されてしまうこともある。日本語を読むだけでもたいへんで、ちょっと人より勉強ができたというだけでは、自分自身の生き残りすらおぼつかない。
英語を覚えるのに自然に生きていれば足りる人と、お金を払って習いに行かなければならない人のあいだには、ずいぶんと大きな溝があるように思う。その溝は、またさらに広がっているようにも感じる。
サックス教授の話についていくことが、その溝を大股で飛び越えた先のことのように思えてしまった。というのが、正直なところだ。
ただサックス教授の書く英語はとても平易で、読み手のことを親切に思いながら書いているようなのは、つけ加えておいたほうがいいかもしれない。
びっくりするくらい急に拡がったフェースブックなども、やはり英語でのやりとりが容易で、容易にやりとりできるがゆえに、さらにやりとりできる相手が増えるという良循環、というかネットワーク効果が大きかったと思う。
サックス教授がソーシャル・ネットワーキングの話をして、それをきっかけとしてソーシャル・ネットワーキングを推奨する大人が増えたとしよう。それを学生が聞いて、じゃあぼくらもやってみるか、と集まりだす。そうすると、できるだけ多くの人と知り合おうとしたとき、話しかけるのに便利なのはどうしても英語になってしまう。英語で話しかけることは、悪いことではない。日本のような現地語の強い国でさえ、多くの人は英語を学び、使えるようになることが善いこととされている。
ではその場合、中間にいる人たちは、どのように振舞えばよいのだろうか。英語がますます流通する世界の流れのなかで、置いていかれてしまうかもしれない。
わたし自身がなんとなしに感じた不安というのは、そういうことだろうか。
サックス教授は、「タイム」誌の主宰する「世界でもっとも影響のある100人」に何回も選ばれているという。1954年生まれ、53歳だ。
ところで、そうこう考えているうちに、興味深いブログ記事を渡辺千賀さんが書いているのを見つけた。

インターネットさえあれば世界中に簡単にリーチできる、と言われるが、世の中はそんなに甘くない。

ソーシャルネットワークを見れば明らかだが、なぜか特定の国や地域に片寄って人気がでる。Boboはイギリス、Orkutがブラジル、というのは有名だが、SNSのはしりとして一世を風靡した後、結局アメリカでは尻つぼみになってしまったFriendsterもその後なぜかフィリピンを中心とした東南アジアで大人気に。どれもアメリカ発の事業なのに、なぜかそういうことになってしまったのでした。

たしかに、そうだよなあ、ふーむ。
渡辺さんが紹介しているのは、複数言語のソーシャル・ネットワーキングの話だ。

ここでやっとXIHA。フィンランドが本社で先月アメリカでもローンチした。「多言語を話す人のためのSNS」ということで、

1.サインアップ時に自分の言語を複数特定できる。そのうち一つを「メイン言語」とすると、それ以降サイトメニュー等は「メイン言語」で表示される
2.ブログもあるが、これも「記入言語」を指定
3.自分が選んだ言語のブログだけが表示される

という仕組み。つまり、知らない言語は見えなくなる。これ大事。

・・・・ではあるのだが、ちょっとだけ使ってみた感じではまだまだ多言語の扱いに工夫は必要で、複数の言語でブログを書きたい場合、それぞれの言語ごとに違うブログを作らないといけないのであった。少々面倒。

これがうまくいくには、たしかに工夫が必要なのだと思う。多言語を話す人のためのSNSと、聞こえはいい。だが実際のところ、ネットワーキングだから、どこがどう広がっていくのか、どこに突き抜ける糸口があるのか、やってみないと(やらせてみないと)次の手が打てないという課題がある。面倒を乗り越えて、ひとつひとつの問題に対処していくのが正攻法だろうけれど、それには時間もかかればお金もかかる。XIHA(シーハと読むらしい)がうまくいってくれたらおもしろいだろうなと思いつつ、自分がそこに参加することを考えると、長続きしてくれる(できる)だろうかという不安もある。グーグルの矢継ぎ早に飛び出してくるサーヴィスの数々を見ていても、試行錯誤のなかからしか成功は出てこないということが察せられる。逆にいえば、グーグルみたいに試行錯誤ができるのは、誰にも真似できない軸があるからだろう。その誰にも真似できない軸を持てる人は、どのくらいいるだろうか。自分にも軸があればいいなと思う。だがなにが軸になるのかは、わからない。
とりあえず、『コモン・ウェルス』をもうすこし深く読んでみようと思う。なにか見落としている大事な点があるかもしれない。