「日本語が亡びるとき」を読んで(10)

「新潮」9月号に掲載された冒頭3章を読んでから2か月以上たってあらためて単行本『日本語が亡びるとき』を読んだわたしの感想は、これを読んだ人から見て、いくらか焦点がずれているかもしれない。わたしがいま書いていて心配に思うのはそこがうまく通じるかどうかだ。
正直なところ、この単行本は値段が高い。もうすこし安く、多くの人に届けばいいと思うのだけれど。
いや、そんなことは気にならない、読みたくなければ買わなければいいだけという言い分もあるだろうと思う。だがひとつここで確かめておきたいのは、誰かがなにかを書いて言おうとしたとき、それがどのように伝わるかは書き手には決められないということだ。なにが問題かというと、現代では出版物の値段が高いということが、読者を選ぶということにはかならずしもならず、むしろ出版された本自体よりも出版されたという事実がいちはやく知れ渡り、その周辺で語られたことが注目されやすく、書き手がどうにも手を出せないところで、その本の言おうとしていることが伝わっていくということだ。その事実を水村がどう考えていたか、そしてこの本を出版するにあたって値段を定めた担当者がどう考えていたのか、わたしにはなんの手がかりもないが、題名のつけかたと並んでうまくのみこめなかった。
「新潮」に掲載された「日本語が亡びるとき」を読んでわたしが最初の感想をここに書いたのは9月中旬のことだった。その後なんどか気になってインターネットで検索できる感想文にはどんなものがあるだろうかと探してみたが、とくにこれといって広い注目、強い視線を集めているとは思われなかった。水村がアイオワやパリで経験した話は自分にとってはおおきな刺激となったけれど、ほかの人たちがあまり刺激と思わなかったとしても不思議ではなかったし、そういうものだろうと合点がいったつもりだった。
ところが単行本になってみるとわたしの合点はなんのことはない、ただの早合点にすぎなかった。結末まで読んでみれば3章までの水村自身の経験談にとどまらず、『三四郎』の細部にわたる読み込みから、インターネット時代の英語から、日本国内での学校教育まで、本文中でなんども小説家と名乗りながらよくもまあここまで踏み込んだ話を最終稿に含めたんだなあ、こいつはドッキリだと震え上がった。事実1回目の感想を書いたときのわたしの指は震えていた。
というわけで、これだけの怪物を世に問うのであれば、気がかりなのは売れ行きよりも評判のほうだ。それも承知の上で「日本語が亡びるとき」という題名のまま、単行本にするのならばそれもひとつの賭けだと思う。だけれどこの手の題名が呼ぶのは「読者」よりもはるかに多い「読者でない人」の評判だと思う。わたしのような場外の人間にも察しがつく。そうであるなら、ここは思い切って値段の安い出版方法にしてもよかったのかもしれない。というのは素人の考えなのかもしれないが。いずれにしても買うのは素人で、わたしは値段が高いと感じた。
ちなみに、『日本語が亡びるとき』の著者である水村美苗がこの長文でさかんに説いているのは、ある言語が栄えるかどうかは自然にできあがったものではなく、むしろ偶然できたもので、その原因が国家の力関係にあったということだ。ノーベル賞が英語の書き言葉の流通をさらに強めたことや、日本語で書いた小説家が受賞したときはいずれも英語への翻訳がなされたことのおかげだったと、水村は書いている。ついでにわたしの注釈を加えると、英語が世界中で読まれるようになったのはやはり、「ペンギン・ブックス」などの安くて軽いペーパーバックの影響が大きかったし、それ自体を可能にしたのは英国と米国の重工業の発達ではないかと思う。安くても足りる分だけ運べなければ手に入らない。そして20世紀末にはすでにアマゾンが世界中の英語で書かれた本を世界中に安く運び届ける仕組みを確かなものとした。さらにいうと21世紀に入ったいま、話はアマゾンでいつでもどこでも手に入るということだけでなく、インターネットでつながった先にはいつでもどこでも評判が流通するというところまで進んでいる。
だとすれば、2008年の日本で「日本語が亡びるとき」という題名で出版するということは、夜通し路上で演説するのと等しいくらいの劇場効果があるのかもしれない。水村がそれをどの程度意識していたのか。わかったうえでなおかつ狙ったのか。それとも「新潮」に掲載したときにはそこまで注目されなかったことから、この題名の影響は低めに見積もったのか。
そうは言っても、じっさいに起こったことをなかったことにするのはできない相談だ。わたしの感想文もやはり、その影響から逃れることはできないと思う。この先書き進めるなら、それを覚悟したうえで書かなければならないんだろうな。ちょっとやめておこうかとも思ったのだが、しばらくたってしまうとこちらの気持が変わるかもしれない。変わらないうちに書いてしまおうと思う。どちらかといえば、自分のために。
日本語が亡びるとき』の後半でわたしがもっとも興味深く読み取ったことは、翻訳にまつわる話だ。
水村がこの場の話をまとめるために当座に設けた<普遍語><国語><現地語>という役割について、それを結びつけるものは翻訳だという話はすんなりと納得がいった。そして日本の場合とくに大事だったのが、漢文を訓読することから翻訳の工夫がだんだんと進んだという話も、すんなりと納得がいった。このあたりの水村の勉強量は相当なもので、これだけでも講演したらけっこうな評判が集められそうな気がした。そしてなによりおもしろかったのが、福沢諭吉がいかに苦しんで勉強したかという話だ。この苦しみというのはほかでもない肉体の苦しみで、たとえばあまりに根をつめて勉強をして疲れたのですこし横になって休もうかと思ったら枕がないことに気づいたという話。考えてみれば緒方塾に集まる弟子たちは皆、生活と呼べるような生活をしておらず、オランダ語の辞書1冊きりしかない塾で、かぎられた道具でどれだけ勉強できるかを競い合っていたものだから、布団をしいて寝るどころではなく、気がつけば枕など使ったこともなかったという話。
緒方塾というのはオランダ学を日本語に翻訳する勉強法を主にやっていた。ところが、そこを出て実社会で活躍したいと考えた福沢が横浜まで夜通し歩いて外国人の集まる店に踏み入れてみれば、なんとオランダ語がまるで通じない。どうもオランダ語では用が足りないらしいとわかった福沢はがっかりしてそのまま歩いて東京に戻る。休む間もなく歩き続けたので足はガタガタにくだけてしまった。でも彼のがんこ頭はくだけなかった。どうにかしてやろうと考えた福沢が思い直してあたりをつけたのが、英語だったという話。
これは水村の語りのうまさには到底かなわないので、このへんでやめておく。
翻訳者の苦しみが肉体の苦しみとしてつづられているのを読んで、ああそういう読み方もあったんだなとやけに納得して、親しみを感じてしまった。ただこれは『日本語が亡びるとき』という巨大な船の一翼にすぎない。
福沢のその後の塾が慶應義塾に発展したという話もそこそこに、水村は<国語>としての日本語が成立したことの理由をあげ、3つめの理由として「近代に入って、西洋列強の植民地にならずに済んだこと」をあげている。そして、そのおかげで、日本語で学問をすることができる大学ができたという。それが日本近代文学の奇跡を呼び込んだというのが水村の話の肝らしい。奇跡というのは起こるはずのなかったことが起きたという意味で、それを強調したいらしい水村の主張は数回にわたって言い換えられながらくりかえす。そのくだりは水村自身のことばを引いてきたほうがよさそうだ。

もし、日本がアメリカの植民地になっていたら、どうなっていたか? たぶん、私たちが今知っているような日本の大学は存在しえなかったであろう。植民地政府に選抜された優秀な人材や裕福な家庭の子弟はアメリカの大学に留学することになったであろうし、もし日本に大学が作られたとしても、授業は英語で教えられるようになったであろう。(事実、台湾や朝鮮を植民地化した日本は台湾や朝鮮に日本語の大学を作った。)

日本の大学で学問ができるようになったことと、日本で近代文学が可能になったことの関係を裏付けるものとして、その黎明期の作家たちは、東京帝国大学に在籍した人が凄まじく多いと水村は語る。漱石、鴎外、坪内逍遥正岡子規、山田美妙、尾崎紅葉上田敏小山内薫鈴木三重吉斎藤茂吉志賀直哉武者小路実篤中勘助、木下杢太郎、谷崎潤一郎山本有三内田百間岸田国士久米正雄芥川龍之介大佛次郎川端康成
ここまで列記する水村にはやや呆れるが、こういった真実をはっきり言葉にしたのはそれなりに意図があるのだろう。というか、これだけ聞かされて否定するような気にはならない。そのうえで水村はきっぱりと言う。

日本ではいかに翻訳者養成所である大学を中心に近代文学が発展していったかを物語るものである。

そして、水村の語りは周辺からじわじわと固められたうえで、漱石の『三四郎』へと読者を追い込んでいく。
(つづく)