ジャンク部数よりも、自分で手に入れたフォロワーのほうが大事だ

(This is a translated version of "John Battelle's Searchblog" blog post. Thanks to John Battelle.)
ツイッターで一部の人たちのフォロウ数が爆発的に増えているようなので、これはひょっとしたらツイッターの順位づけにも2つタイプをつくるべきではないかと思う。ひとつは純粋に「自分で手に入れた」オーディエンス数を基準にしたもの、もうひとつはツイッターの推薦ユーザ機能(これは先週書いたとおり)を通じて急浮上した人のもの。
この手のことは自分が口を出す立場ではないと思うが、理由はどうあれ、とにかく気になって仕方ないのだ。わたしはこのサイトを始めたときのことを覚えていて、自分が尊敬する人から読んでもらえるようにと始めたのだった。ほんの一握りの人たちがその意味を見いだしてくれ、そこからだんだん有機的に広がっていったのだが、ある時点からテクノロジとメディアに関するブログではいちばん有名なひとつになってしまった(それは04年から05年あたりのことだが、わたしがニューズをまとめるのを止めてダニイ(・サリヴァン)やマイク(・アーリントン)のような人に向けて意見するようになったのはその後だ)。それはなかなか気分のよいことだった。貴重なオーディエンスからの尊敬を自分で手に入れたのだし、数字でもそれが伝わってきていた。これはA/VCをやっているフレッド(・ウィルソン)や、TCをやっているマイク(・アーリントン)や、その他多数の人も同じだろう。
だが最近のツイッターで競い合われていることは、それとはまた別らしい。わたしはツイッターのフォロウ数が最近急激に伸びている人たちと話をする機会があったが、かれらは皆同じようなことを言うのだ。フォロワーは劇的に伸びたかもしれない、だが没頭している人、つまり返事をくれ、ツイートのリンクをクリックしてくれ、ダイレクト・メッセージを送ってくれる人は、ほんのわずかしか伸びていないと。言い換えれば、このシステムは、雑誌ビジネスで言うところの「ジャンク部数」(ゴミ箱行きの部数)つまり価値云々でなく数字のための数字を増やしているだけなのだ。
このような競争は多くの人がやってきたことであるし、コムスコアに一喜一憂するインターネット世界では、これからもつづいていくのだろう。だが結末は決して明るくない。そうだったためしがない。
ツイッターのエコシステムにとって、どのような意味においてもいいことだとは思えないのだ。