広場は果てしなく広がるかもしれない。梅田はそのことに気づき、決断した

一冊の著作物が本になって、それが多くの人の手に渡る。それを手に入れて読みたいと思った人が、時間、労力、金銭によるコストを負担せずに手に入れられる。
そのような世の中は、もうすでにやってきていると思う。
グーグルの書籍検索サーヴィス? アマゾンのなか見!検索? それもあると思う。だけれど、それとは違った風が、局所的ではあるけれど、誰にもそれを阻むことのできないようなかたちで、巻き起こっている。
こんどの梅田望夫の著書『シリコンバレーから将棋を観る - 羽生善治と現代』は、そのような事件かもしれない。
梅田望夫は自分の書いた著作物をタダで配ることに、早くから意識的であった。「英語で読むITトレンド」というブログ連載では、自分の集めたテクノロジ産業のヴィジョナリー(将来を予見する人)の論考に解説をつけ、それを1年半ほどにわたって毎日タダで配布した。それが売り物として価値のあるものか、当時すでに著書もあり、複数の高級月刊誌に寄稿していた梅田にはおそらくわかっていたであろう。多くの人が、お金を出してまで、それを手に入れて読みたいと思うか。それに意識的でありながら、その商品(になりうるもの)をあえてタダで配る。
なぜか。
ものを書く人間がいて、ものを読む人間がいる。そのあいだに関係が生じれば、それは読書といえるだろう。ものを読む人間がいて、ものを読む人間が「もうひとり」いて、そのあいだに関係が生じれば、それは読書以上のものといえるだろう。
梅田が手に入れたかったのは、読書以上のものだったから。そして、それが過去のどの時代にも増して、手に入れやすくなったから。そうではなかろうか。
「もうひとり」を見つけることが困難であった時代は、ものを書く人間にとっても、ものを読む人間にとっても、なかなかきびしい時代だったのだろう。ものを書く人間が、ものを読む人間に向かって、一方的に言葉を投げる。そこに生まれうるものは、読書ではあるけれど、読書以上のものは期待できなかった。読書というトンネルの端っこ同士にいて、そこから片方が声を投げかける。でもそれは誰に向かって声を張り上げているのか、わからない。だが、書いたものを本にして、大量生産する技術だけが先に進みすぎ、それが商品として売れるから、もっとつくって売る。売れた本の著者が、もう一冊を書く。読書という、人と人を結ぶ関係が、本という商品を送り出す。関係があることを確認する主な手がかりは、本という商品が売れるという結果くらいであった。そのような時代は、ずいぶん長くつづいたのではないか。
だが、いまはその時代が終わり、べつの世の中が開けてきている。読書というトンネルの端っこ同士ではなく、読書以上の関係が生まれる広場があって、それはものを書く人間に、自分が書きたかったものを書く以上のよろこびをもたらすこともある。この広場は、ほんとうに広い広場だ。国境を越えるだけでなく、言語の見えない壁も越える、途方もなく広い広場になりうる。
それは、タダで配るという決断をすれば、広場は果てしなく広がるかもしれない。
梅田はそのことに気づき、決断した
シリコンバレーから将棋を観る - 羽生善治と現代』という書名が"Yoshiharu Habu and Modern Shogi"という書名になって、日本語ではなく英語で読まれ、英語以外の言語でも読まれることを期待し、それを可能とするために著者として決断したのだ。
そこで語られているのが「英語で読むITトレンド」からは類推しにくい将棋の世界であっても、梅田が読書以上のものを手に入れたい気持は、少しもずれていない。梅田がウェブ上で自分の書いたものにかんする記事、言説を探し当てることにかける情熱は、あるいは著書の執筆にかける情熱にも負けていないかもしれない。そしていつでもそのきっかけはすべての人に開いておきたい、というのが梅田の基本的な姿勢であるように見受けられる。
たとえば、この『シリコンバレーから将棋を観る』が一冊の著作物として本になる決定的なきっかけになったのが、羽生善治佐藤康光の対局した棋聖戦を、梅田が招かれて書いた観戦記であったが、これはウェブで公開されたものが、いまでもそのまま読める。それから、渡辺明羽生善治による竜王戦の観戦記も書くことになった梅田は、おそろしく長い文章を書き、それを公開した。いまでも読める。本が出るからそろそろ配布もおしまいにしましょう、ということではない。本が出ることをきっかけに、さらに多くの人に読んでもらい、できるかぎり多くの人からの感想や意見に扉を開いておきたい、という姿勢なのではないか。
それは率直に言って、誰にでもできることではない。
ウェブ時代をゆく』以来、「文系のオープンソース」という言葉について考えつづけてきた梅田が、手持ちの駒をじっくり見据え、熟考し、そのうえで決断したからできたことだ。
では、梅田の考える「文系のオープンソース」とはどういうことなのか。わたしはとても興味があるので、ここでひとつ考えたい。参考になりそうな文章が、梅田のブログ「オープンソース的協力が成立する要件について」のなかに見受けられる。

  • プロジェクトの中核に、尋常でない情熱が宿っていること。
  • そのプロジェクト自身に大きな意義がありそうに思えること。
  • プロジェクト・リーダーの私的な利益に供しないこと。
  • オープンソース的協力がなければプロジェクト自体が成立しないだろうこと。
  • プロジェクトに参加するために必要なスキルがわかりやすいこと。

梅田はこれらの条件を満たしていると判断して、「何語に翻訳しても自由」と宣言したのだという。なるほど翻訳というのは、文系のオープンソースを考える人に、大事な手がかりを与えてくれるように思われる。オープンソース的協力が成り立ちやすいプログラミングとはやはり別個に条件を考えなければならないのであろう、5つめの条件は梅田自身「わかりやすい」と言うにとどめている。これはほかの4つにくらべ、客観的な条件と見なすこと自体に異論が生じやすい。プログラムは動くか動かないか、はっきり答えが出ることによって、それを書いた参加者のスキルが明確に定義される。だがたとえば翻訳のスキルを明確に定義する方法はどこにある、と言われれば、わたし自身答えられない。
だがそこでひるむのではなく、仮説を仮説としてはっきり声に出し、それに対する応答や異論を受け付けるのが梅田望夫である。この第5の条件については注釈に「言語の翻訳能力という、参加のためのスキルが明解に定義されているということである」と述べている。それについては、複数の観点から、応答や異論が寄せられることを期待する、というのがわたしの立場である。そのような声に対して、開かれた大人の流儀で接するのが、梅田一流であるとわたしは思っている。
ところで、わたしが最近読んでいるブログで、とくに興味深いことを書いているのが"A VC"のフレッド・ウィルソンだ。彼は自分の書いたブログを誰にでも自由に利用できる「クリエイティヴ・コモンズ」のライセンスによって、事実上タダで配っている。その点で梅田の試みと通じるものがあると感じてきたのだが、最近とくにおもしろかったのが、"Social Media Rules For Journalists"という話題だ。わたしはウィルソンとイーメールで連絡をとりあって、翻訳したいと持ちかけたところ、「クレジットとリンクさえ明示してくれれば喜んで」と快諾してくれたので、それ以来"A VC"の翻訳をときどき自分のブログに載せている。それでこの話題は、「ジャーナリストのためのソーシャル・メディアにおける行動ルール」と訳してみた

ソーシャル・メディアでつくった友人関係や人間関係は、あなたのネットワークを築くものであるし、将来の記事を書くチャンスをつかむ糸口にもなる。これはわたしがブログでかなり早い時期に学んだことである。自分らしく、仕事以外のことも語ることで、わたしはこのAVCでフレンドのコミュニティを築きあげ、そこでは数えきれないくらいたくさんのことで助けてもらった。ソーシャル・メディアはパーソナルとビジネスを混合させるためのものなのだ。それをいちばんうまくやる人が勝つ。

というくだりがとくにおもしろく、なるほど自分らしく、仕事以外のことも語るというのは、友人関係や人間関係を広げる大事なきっかけになるのだなと感心した。
パーソナルとビジネスを混合させ、それをうまくやった人が勝つというのは、フレッド・ウィルソンくらい勝っている人でなければ思っていてもなかなか言えないだろうと思うが、実際わたしはこのくだりを読んで、梅田望夫のことを思わずにはいられなかった。まさに梅田のやっていることは、パーソナルであるところの将棋と、ビジネスであるところのインターネットを、混合させ、うまくやるということではないか。
そしてそう思っていたところ、「極東ブログ」の興味深い書評「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ(ジョー・マーチャント)」が投稿されているのを見つけた。

人間の総合的な「知」というものには二つの側面がある。個別の知識を非個人的に体系化したサイエンス(science)と、手技にも近い徒弟訓練から習得されるアート(art)の側面だ。本書終盤で圧倒的にこの読書者を引き込むのは、フリースらが代表するサイエンスに、ライトが代表するアートが対決していく描写だ。

サイエンスについて情報産業のグーグルを引き合いに出し、アートについて非科学者だが謎の発掘物の正体に手作業で向かい合うライトを当てはめる極東ブログの筆者finalventの考えに、わたしも共感する。サイエンスとアートを対立させる意図はないとfinalventが注釈しているとおり、それは補い合うものであろう。そしてある場面においては、混合させられることを、サイエンスとアート自身が切実に求めるというのが真実ではなかろうか。そのようにわたしは思った。
ここで梅田の視点に戻る。
2008年10月18日、パリで行なわれた竜王戦に寄せて、梅田は観戦記序文でこのように簡潔に述べる。

テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。

この宣言が、自分らしく、仕事以外のことも語るフレッド・ウィルソンの姿と重なり、パーソナルであるところの将棋のことを書く梅田の姿にいつのまにか、わたしの頭のなかの映像は切り替わっていたのだ。
パーソナルとビジネスを混合させ、それを誰にもできないようなかたちで実現させようとしている梅田に、ささやかながら賛辞を送りたい。
(文中は敬称を略しました)