ソーシャル・メディア - クラウドに置く必要があるのは何か?

(This is a translated version of "A VC" blog post. Thanks to Fred Wilson.)
わたしは昨日イーメールで、ある友達と興味深い討論をした。彼がわたしに言うには、すぐれたソーシャル・メディア・サーヴィスをつくるには、クラウドのなかにメディアを置く必要はないのだそうだ。彼が言うには、ファイルはローカルにも保存できるし、クラウドに置く必要があるのはデータだけだという。わたしは必ずしもそうは思わない。
わたしはこの数年(正確には2005年10月から)自分が聞いている音楽のデータをlast.fmでいじくってきた。だからわたしのデータはクラウドに置かれている。だが正直に言って、わたしはそこにソーシャル・メディアの価値を感じ取っていない。
自分の聞いている音楽のデータをいじくっていて使いやすさをいちばん感じるのは、last.fmの「ネイバー・レイディオ」というものだ。これを使うと、自分の「音楽のネイバー(おとなりさん)」がプログラムを組んだレイディオ・ステーションを聞くことができる。だがこれはごく個人的なものである。
話の比較に、たとえばタンブラーで起こっていることを出してみよう。わたしは毎日タンブラーで、楽曲を一曲ずつ投稿している。そうするとコメントや、お気に入りや、再生回数や、リブログといったフィードバックがわたしのところへ返ってくる。わたしが投稿した楽曲について、人がどう思うかを知ることができるのだ。それに、他の人がなにを再生し聞いているかも見に行ったり、聞いたりできるし、わたしも同様に、コメント、リブログ、お気に入りといったことをする。
ほかに出ているソーシャル・ミュージック・エクスペリエンスでも、これと同じことが言える。ツイッターで楽曲のトラックへリンクを手渡しするとか、「ハイプ・マシン」で曲を聞くとか、blip.fmに没頭するとか。
そうなると問題は、ファイルを自分のマシンにローカルで保存するか、それともネットワーク上のストレージ・デヴァイスだとかクラウドに保存するか、どちらがソーシャル・エクスペリエンスをほんとうに得られるかという問いになる。あるいはメディアそのものをクラウドに置く必要があるのか?
わたしの腹の虫の言い分では、わたしたちはメディアとデータの両方をクラウドに置く必要がある。必ずしも同じ場所やサーヴィスである必要はない。わたしが気に入りそうなのは「タンブラー/リスン」(このサーヴィスを使うにはタンブラーのユーザである必要がある)で、自分のいじくっているデータを元にして、もっとパーソナライズしたヴァージョンにするというアイディアだ。
メディアをクラウドに置く必要があると考える理由のひとつは、あなたが聞いているものと同じものをわたしが聞けるという保証がある唯一の方法だからだ。ファイルをベースにしたメディアに依存しつづけるということは、ホイールズ・オン・ファイアの「アイム・ターニング・イントゥ・ユー」が好きだと言ってみても、それがオンラインになければ(ここにあるけれど)わたしはそれを聞くこともできないだろうし、わたしがそれを聞いてどう思うか伝えられないし、そしてなによりも友達と共有することもできないことになる。ついでに言うと、このすばらしい歌をわたしが見つけたのは、タンブラーでルークをフォロウしていて、彼が数週間前に投稿してくれたからだ。
これと同じ問題がTVショウ、映画、写真、ゲーム、ニューズ、その他の形態も含めてわたしたちがウェブ上かウェブ以外で消費しているメディアそれぞれについて言える。わたしたちがメディアを消費する方法として、ファイルに依存しつづけるのなら、その消費のまわりに生まれるソーシャル活動は途絶えてしまうだろう。すべてのメディアがクラウドのなかでストリーミングされるやり方に移行すれば、わたしたちはソーシャルのやりとりによって火がついた、消費の爆発を見ることになるだろう。
全体としての平等を保つためのバンド幅とストレージのコストのせめぎ合いもやはりあるだろうが、完全な平等になれば、メディアがローカルで保存され消費されるよりもずっとよいことになるに違いない。だがソーシャル・メディアやソーシャルのやりとりがもつ力は、クラウドをベースとしたメディアをつくるということによって、緊張関係を取り払ってくれるとわたしは思う。あなたはどう思う?