『1Q84 BOOK 3』を読んで

1Q84の感想を書こうと思っていたのが、書かないでいるうちにBOOK 3という続編が出てきてしまった。
アマゾンで予約しておいたところ、うまい具合に発売日に到着してくれた。金曜日だったこともあり、夕方から読み始めたら止まらなくなってしまい、気がついたらその日に読み終えていた。時計の針は4時をまわっていた。
1回読み終えただけでは人に見せられるような文章を書ける気がしなかったので、週末のあいだ思考を寝かせることにした。うまく言葉がでてこない。言葉にしてみようと思えばいくつか思いつくことはあるのだけれど、それも思いつくだけで、何が何でもかたちに残しておかなくてはという執念が沸いてこない。読み終えてしばらくの感想といえば、無力感という言葉が浮かぶ。
読んでいるあいだ、目の前にはノートPCがあって、ときどき本に出てくる固有名詞についてWikipediaで調べてみたり、ときどき関係のないウェブページを開けてみたり、中断することがあった。というか、中断しようとした。あまり一気に読むとよくない、という気がしたからだ。というのも、BOOK 3では青豆が『失われた時を求めて』という長い長編小説を読んでいる。タマルという男がその小説を青豆に勧めるのだが、青豆はそれを一気に読むことを意識的に拒む。タマルは孤独な境遇にある青豆を気づかって本を与えるのだけれど、青豆はその厚意を受け入れつつも、やはりどこか小説の世界にのめりこめない心境にある。
わたしも青豆のように、1Q84という小説の世界にのめりこめない心境であったように思う。だが小説の世界にのめりこめない心境、という点で青豆に共感してしまったのか、気がついたら青豆が頭の隅から離れなくなった。青豆という人は不思議な人だ。なぜか忘れることのできない昔の同級生のような、不思議な印象を私に与える。好きでも嫌いでもない、とくに気にしていなかった相手なのに、いつまでも覚えている。そんな人だ。それは青豆という不思議な名前のせいではないと思う。自分の中に青豆が住み着いてしまったような気分だ。
だが、青豆が自分の中に住み着いてしまうと困る。彼女の迷い込んだ1Q84が裏の世界としたら、1984年が表の世界で、私も表の世界に戻れなくなくなってしまいそうだからだ。
この小説のなかに表の世界を生きるための答えはどこにもない。たぶん、そのことを作者は読者に伝えようとしている。
この物語の構造はいたって単純だ。初恋の相手を捜し求めていた女性が、20年経ってその王子様に再会する。悪を退け、正しい世界に向かってふたりで旅立つ。
だが、その物語が、王子様の都合でこしらえられた、作り物の虚構だったとしたら、読者はどう思うだろうか。天吾を思い、捜し求めて20年。一途な女性としての青豆が、天吾の手によって後から修正されて描かれた理想の女性だったとしたら。
そんな虚構にのめりこんでしまった自分を、恥ずかしく思うのではないか。読み終えた重たい本を、「こんなもの!」と言って放り投げたくなるのではないか。
わたしは、ある意味そんな気分にとらわれている。無力感。孤独感。
だが、思い直してみよう。自分をここに置き去りにしていった忌まわしい虚構が、ほかの人たちにも読まれていたとしたら、どうだろうか。なにしろ、1Q84は初刷で数十万部を越え、さらに発売日には増刷決定、すでに80万部が確定しているという小説(商品)だ。自分と同時に80万人が王子様の都合で振り回されたという事実は、無力感を消すに十分以上の力をもつのではないか。
そう。よく考えてみれば、この作り物の虚構を世に送り出した出版社は、すでにこの物語のもつ歪んだ力について、あらかじめ知っている。読者をひきつけ、最後まで付き合わせ、結末として王子様の物語を与える。「子供だましにもほどがある!」といって怒る読者は、決して少なくはないはずだ。
だがその怒りは、先回りして封じ込められている。なにしろ、昨年初夏に発売された2冊の本は、合計で300万部以上の売り上げを達成した。続編が出ればそれに負けないほどの売り上げは見込まれる。作者は1人しかいないのに、そこに数百万人の人が群がったらどういうことになるのか、出版社ならば予測はできるだろう。そして、その大衆を操る方法は、いくらでもある。それがわたしたちの生きているこの世界の実情だ。暴力的で、行き先の見えない世界。行き先が見えないのなら、示してしまえというわけで、王子様に迎えにきてもらう姫としての青豆を描ききり、それを「ただの童話です」とは言わずに世に送り出す。子供だましと言われれば、「ただの童話です」と答えればいい。
さて。
作者とされる村上春樹氏は、1Q84がここまで大きな影響力をもつことを、予測できただろうか。それがわたしたちのもつ、第一の疑問のひとつだろう。
これについてはいろいろな憶測が飛ぶだろうし、いくつかの書物も書かれるに違いない。だが、わたしたちのもつ第一の疑問のひとつは、解決を提示されずに終わることだろう。この本の数百万部のコピーとともに、世に置き去りにされる。それどころか、村上春樹氏が今後この世界に姿を現すのかどうかも覚束ない。そのまま、消えていってしまうのではないか。あるいはイエス・キリストがそうであったように、何者かによって匿われ、表舞台に出てこないように厳重な警備が敷かれ、その発言は管理され、その結果神のような伝説が第三者によって紡ぎ出されていくのではないか。
この小説が売れたおかげで、小説家村上春樹の今後のあり方は、宙に浮かぶことになった。
次はどうなるだろう。それも、わたしたちのもつ、第一の疑問のひとつかもしれない。
わたしはどちらでもいいと思う。続編を書いてくれてもいいし、このまま1Q84とともに置き去りにしていってくれてもいい。ただ、できれば村上さんにはこの辺まで降りてきてもらいたい。普通に神宮外苑をランニングしてほしいし、夕方のそば屋でビールを飲みながら週刊誌をのんびり読んでいてほしいと思う。もしできることなら、『海辺のカフカ』のときのように、読者に直接メールの返事を返すような村上さんでいてほしい。
というわけで。
なぜこの作品がこれほど売れているのか。なんのために数十万人の人が続編を読もうと詰め掛けているのか。そこにはどんな謎があり、その謎はどこまで解き明かされているのか。それについては「極東ブログ」に詳しく述べられている。これはすぐれた書評だ。参照していただければと思う。
[書評] 1Q84 book3 (村上春樹) : 極東ブログ
[書評] 1Q84感想、補足: 極東ブログ

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

追記:「ただの童話です」という言い訳ができそうなメタ小説の例として、まっさきに思い浮かんだのが、水村美苗本格小説』だ。これも自ら「本格小説」と名乗っておきながら、じっさいはその本格を自分で脱構築している。すごい小説だし、作者には敬意を感じるが、いじわるな小説ではある。作者本人がいきなり登場して1冊目の大半を独占してしまうのもいじわるだ。でも、最後まで作者=村上春樹が登場しない1Q84はもっといじわるだ。いじわるされてみたいという方にはおすすめ。
本格小説 上

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