1987年ソロモン・ブラザーズ東京と転換社債

もう一つのマシーンはビクター・ハガーニの優れた頭脳から生み出された。1987年、弱冠25歳、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の学士号しか持っていなかったハガーニではあったが、彼はその経歴の乏しさを決断実行力のよさで補った。ローゼンフェルドや彼の以前のボスであったマーティン・リーボウィッツから必要となる理論を学ぶと、ハガーニはすぐに彼らと互角の仕事ができることを示した。
ここでの彼の頭脳の産物は、彼が東京に駐在している時に考えだされたものだ。1980年代に新しいタイプの債券が現れた。転換社債と呼ばれ、ブラック・マンデー以前のブル・マーケットをあおったレバレッジド・バイアウトのブームへの対応策として生み出されたものだ。
乗っ取りは単純な原理に基づいて行われる。つまり株主の収賄だ。企業乗っ取り屋が会社の主導権を握り、経営陣を解雇し、資産を売り払って現金に換えるのを後押しする見返りとして、株主は多額の配当と株価の急騰で報われることとなるのだ。
乗っ取りに必要な資金は「ジャンク債」として知られる高利回りの債権でまかなわれる。不幸なのはこれら企業のうちいくつかでは、主導権を握った経営陣が、破産前にすべての資産処分してそれを株主へ還元してしまうため、債券所有者が要求すべき資産が破産後には何も残っていないという状態になることである。
そこで、債券投資家が安心できるように、投資銀行転換社債を考え出した。転換社債は発行当初普通の債券と同じように見えるのだが、ある一定の期間の後、決められた価格で株式に転換することが出来る。ここにも隠れたオプションがある。この場合は、債券に埋め込まれた株価オプションだ。
転換社債アメリカですぐに流行した。しかし、ハガーニがチャンスを見出したのは日本でだった。表向きは一流の自由市場経済のようだが、表面下では日本は他国と異なり、コンセンサスと社会のつながりを軸とする文化によって動いていた。日本政府は大企業に対して強い規制を加え、株式持合いを通して互いに深い絆で結ばれていた。
株式持合いによって保有される株式価値が非常に大きいものであったため、政府が優先したことは株価を高く保つことである。そのための一つの方法は、企業に新株を発行させないようにして、人為的に株の供給を低く押さえることである。これは、株式発行により資金調達をしたい企業にはとくに問題だった。そこで転換社債がその解決方法となった。
しかし、日本物の転換社債に対する投資家の食欲はあまり大きなものではなかった。需要は供給に圧倒されて価格は下がった。このことにハガーニは気が付いたのだ。ソロモン・東京のトレーディング・チーフのシュガー明神とともに、ハガーニは買えるだけの転換社債を買い込んだ。彼の次の作業はこれら社債を各構成要素に分解することであった。
社債のクーポンは切り離され、金利スワップを使って変動金利の支払いに転換された。社債の購入は変動金利建ての借り入れでまかなわれているので、金利の変動によるリスクはこれで回避できる。
次にハガーニが購入し、保有した社債に隠されたオプションへの対応である。彼はそれを転換社債の裏づけとなっている同銘柄の個別株オプションを店頭取引(OTC)で売ることによって処理した。公開市場であれば、そのようなオプションは日本株ボラティリティを考慮に入れたブラック・ショールズ・モデルを使って価格が決められる。ハガーニは適正価格でこの取引をすることができるわけだ。
一方、隠れたオプションには全く値がつけられなかった。それは単に政府の規制を回避するために考え出された景品のようなものだった。今やハガーニは転換社債を使って、濡れ手に粟で儲けられるのだ。そして、そのマネー・マシーンでソロモンのために何億ドルと儲けたのだ。(『LTCM伝説』東洋経済新報社、2001年 178−180)
(From the translated version of "Inventing Money" pp.178-180. Thanks to Nicholas Dunbar.)