米国内の保護主義と1985年のプラザ会議

会議は、ニューヨークのプラザ・ホテルで日曜日に開催されたが、この会合の開催が実際に決まったのは直前で、わずか二、三日前の通知で開催の運びとなった。開催場所の選択自体が興味深いことだった。私は、ニューヨークで開催するならば、必要な便宜と安全を保証してくれるニューヨーク連銀のウォール街のオフィスが論理的な帰結だろう、と示唆していた。しかし、会合が愉快で静かな会合に終始し、控えめな宣言で終了する、しかも、FRBの地盤での会合というのは、ベーカーが頭に描いていたものではないことは明らかだった。基本的な経済政策については意見の一致をみたことを示す長いコミュニケに織り込まれる材料について、財務省および他のG5各国のスタッフは、かなりの準備作業をすでに行っていた。実質では新しいことは何もなかったが、ポイントは、介入が経済のファンダメンタルズと矛盾しないことを示すことであった。
会合で私がもっとも驚いたのは、その後総理大臣になった日本の竹下登大蔵大臣が円の10%以上の上昇を許容すると自発的に申し出たことである。彼はわれわれが予感していたよりもはるかに前向きであった。行天豊雄は、日本は米国内の保護主義的な圧力の高まりに危機感をもっており、このような圧力が軽減されることを期待して円の大幅な上昇を許容する用意があったと説明している。竹下大蔵大臣の態度が、他の参加者をも驚かせたことは確かであり、このことは会議の成功に非常に重要な影響を与えた。ヨーロッパ諸国の主要な関心は、過大評価されているドルに対する自国通貨の為替相場ではなくて、円に対する為替相場であった。円の切り上げ幅が大きければ大きいほど、ヨーロッパ諸国は自国の競争力について安心できるのであった。
プラザ会議では、金融政策についての討議は本質的に行われなかった。金融政策についての話合いがなかったのは、国際的な会合で金融政策を実際に議論しなくてはならないとしても、大蔵大臣の同席している時にそうした討議を行えば、セントラル・バンカーとしては当然口が重くなるからだった。セントラル・バンカーの理解するところでは、そうした討議は、意図的であるにせよないにせよ、本質的には政治的なコミットメントである事態に追い込まれてしまう危険に直面しているのである。各国が自らの政策について述べてもよいと思っている内容を長い声明のなかで復唱しているのを除けば、より一般的な経済政策についての議論もほとんどなかった。各国の大蔵大臣はおなじみの苦境に陥っていた。個人的には、大蔵大臣は、主だった政策手段に対する支配力をほとんどもっていなかった。そして政治的には、世界の主要通貨の深刻な過大(小)評価といったような明白な問題の是正を助けるためであっても、みんなが認めるような緊急事態を除いては、税制や支出パターンの変更を伴う困難な方策を講じることを各国は好まなかったのである。わたしの私の知る限りでは、プラザ合意の結果として変更された財政・貿易・構造政策はなかった。(From the translated version of "Changing Fortunes" by Paul Volcker and Toyoo Gyoten.)

CHANGING FORTUNES

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