4月が終わる前に書いておきたかったこと

今日は気づいてみれば日本で言うところのゴールデンウィークがはじまっている。もう4月も終わりだな、ようやく。
たぶん、相当多くの人が疲れているのではないか。祭りのあとで。4月というのは魔物だなといつも思うけれど、それがいったん終われば次の4月までそのことを忘れている。そして4月がやってくると、またその不思議な空気に流されてしまう。これは何度自分に言い聞かせても覚えないみたいだ。たぶん、頭ではなく身体が判断してしまうんだな、春の風は湿ってあたたかいから。
4月の魔物のなかで、静かに自分のペースを守って走っている人がいる。
finalventさん。

1. 現状をひたすら維持する。それだって徐々なる低下に抵抗してがばってんだ象。
8. 無理のない自然体の行動でヘマしたときは、まあそれ以上できないことだしなと諦める。
9. 単なる成功ではなく、成功を支えてくれた人にこだわる。
11. やるべきことは右から左へと淡々とこなす。

これって大事なことだよな、と思う。4月病にかかりそうになっていた自分にはありがたいことばだった。
ついでなので、ちょっとむかしにさかのぼって。

  1. 無名の人が時代の記録をしているんだと思うこと
  2. 他のブログの影響から独立していること
  3. 自分なりのブログの理念を持つこと

これはあえて引用しないほうがいいのかもしれないけれど、自分にもういちど確認させておきたかったので。
それから、これ。

ちょっと私は違った印象をもっていて、つまり、被リンク的なそういう表層的な構造ではなくて、どうやらGoogle様、最近、文章を読んでいるみたいなんですよ。
(.....)
つまり、はてなーズみたいに読まれもしないのに文章を書く書く書く集団がGoogleは大好きなんですよ。

(.....)
それ、結果的にイデオロギーとか工作の排除にもなりそうな雰囲気。

なるほど、それはずいぶん世界が変わりそうな予感ね。
「読まれもしないのに文章を書く」というのは、自分のことに照らして考えてみても、そうかんたんなことではないと思う。ただこれは、多くのことをわたしに思い出させてくれた。
たとえば。
吉田健一が『英国の近代文学』のなかで、こんなことを書いている。

近代文学は何よりも先ず自己に向って語り、さらに自己に向って語ることを知っている読者に呼び掛けるものでなければならないのであり、そういう親密なものが近代文学の著しい特徴の一つである以上、それを人に教える態度に切り換えてもまだ近代文学であることを傷つけられずにいるということはあり得ない。

わたしが思うに、これはたぶん、ふたつの命題を両立させようという試みだ。

  • 余計な説明はしない。
  • なにも前提がないところから語る。

これを両立するのはむつかしくて、それでもやろうとするとどうしても「人に教える態度に切り換え」てしまうことになる。エリオットはそうだったというのが吉田の下した判断。
時代は違うけれど、これはグーグル後の世界にも通用するのではないかとわたしは思った。
読まれようとすると、どうしても「人に教える態度に切り換え」てしまいそうになる。でもこれは、グーグルはよろこばない。
それから、はてなブックマークに英語でコメントをつけるというのは、「読まれもしないのに文章を書く」というものに近い。自分で自分を成長させるためにやっている、というのが実態だろう。それでもウェブ世界という「すべての人に開かれた場所」に置いておくことができる。これは近代文学の仕事をしたひとたちの考えていたことに近いのではないか。「この人に読んでもらいたい」とか「こいつらを教育してやろう」とかそういうことではなく、「そのうち誰かが読めば役に立つこともあるかもしれない」という態度でとりあえず書いておく。俺の名声はむこうがきめることだ、という。
グーグルが好きなのは、こういう書き手なのかな。