効率の悪さ

自分で仕事を決めて自分の足で歩き始めて以来、わたしはずいぶん効率の悪いことをやってきた。
それはたぶん、それでよいと確信したうえでの行動だったと思う。
自分の身体を動かさないとできない種類のこと、面倒な手作業を要求すること、そういった効率の悪さのなかに、自分だけが生み出すことのできる価値のヒントが隠れているのではないかと思っていた。それを半年つづけてみて、ああなるほどと思ったことがあった。それは世の中で目立っているひとは、効率の悪さを解消する方法を生み出したひとなのだと。そしてそれにはかなり時間がかかる。最初は効率が悪かったのだ。そういうことがわかったような気がした。そして世の中には、効率が悪いことを自分の手でやったことのないひとには生み出せないものがある。たとえばグーグルなども、ヤフーがいなかったらたぶん生まれなかったのではないか。手作業でカテゴリ分けして、優良なページを選んで、悪質なページを隅に追いやるという面倒なことをやってきたヤフーに対して、それとは違うなにか、手作業の結果情報を自動で収集することによって、あたらしく自動の結果情報を生み出す。そういったことをやったのがグーグルかなと思った。そして、グーグルのあとにやってきた自分は、やはり手作業の面倒さをかなりの時間をかけて身体に覚えさせることが、グーグルに呑み込まれないための方法なのではないかと思った。もっとも、そのときはうまく言葉にできなかったことだ。
というわけで7か月目から9か月目はとにかく面倒なことをバカみたいにつづけることを自分に課した。それはほんとうに面倒なことだったし、効率が悪いものだから、ちょっとは楽してもいいんじゃないかという気もした。いろいろ便利な道具があって、お気に入りのページが新しく記事を追加したら、それを知らせてくれるものもあるし、手作業の部分を自動化することで、時間をほかのことに振り分けるチャンスもあった。でもわたしはそれを取らなかった。なぜかはわからない。だが自分はそれを取らない、ということは心に決めていた。毎回毎回、アドレスを手作業で打ち込んで、グーグル・ニューズに行く。そして、お気に入りの記者の書いた新しい記事を見つけるにも、わざわざ遠回りしてあれこれ検索してたどりつく。そうすることでなにか、大事なことが見つかるのではないかという気がしていた。
ソーシャル・ブックマークの使い方も、かなり効率の悪い使い方をしてきた。タグはつけない。一度つけたブックマークをなんども吟味して、さんざん迷った挙げ句、ついにはブックマークを解除することも多々あった。こういった無駄な動き、無駄なふるまいのなかに、人間の人間たるゆえんがあるのではないか、そんな気がしていた。無駄を省けばすべてがよいとはかぎらない。
ブックマークをつける方針もなかなか定まらなかった。本来は方針などなく、どんどんつけていって、情報を蓄積していけば、そのうちに便利な道具が世の中に出てきて、それをつかえば自分の欲しい情報にすぐにたどりつけるようになるのかもしれない。グーグルなどは、そういうことをつぎつぎにやっているように見える。それでも自分は、そこに関わろうとしなかった。なぜか。歯車のひとつになるような気がしたからだ。歯車になるにはまだ早い。自分はまだ20代だし、歯車をつくる側になろうと思ってみてもいいのではないか。すこしくらい世の中に体当たりして、あたりの平和を乱してもいいのではないか。それが若者のすることのような気がする。そんな生意気な気分が一部にはあったと思う。グーグルを使いながら、グーグルに使われないというのがわたしのひとつの仮説だった。これは正しいのかよくわからない。
基本的な考え方は、誰も手をつけていないところに一番乗りする、ということだ。はてなブックマークを主に使っていて、そこでほかの人が見つけていない記事から、自分の眼鏡にかなった記事を選ぶ。なんだか生意気だけれど、誰も見つけていなくて、これからも注目されそうになくて、それでも見所のある記事というのはかなりある。というか、これは日本人には注目されないというだけなのだけれど、日本でも英語を学校で勉強する事になっている以上は、英語の記事はそもそもまったく読む意味がないということは、けっして、ない。新聞社などの記者が英語で読んで、その情報を日本語に置き換えて一般に発信している情報とは違うものが、そこにたしかにある。翻訳があるのだし、ただの翻訳よりもうまくまとまった記事だってあるのにわざわざ英語で読まなくても、という考え方もあると思う。それはそれで実用的でいいと思う。だけれど、英語で読んでいるひとがその手作業の面倒さを人前でさらけ出してみるのも、それはそれでべつの価値があるような気がする。むしろそこから、対話のようなものが生まれるのではなかろうか。
わたしはそんなことをひとり考えながら、ただただ面倒な手作業を来る日も来る日もつづけていた。
途中で自分のやっていることに疑問を感じることもある。世の中では効率の悪さをさっさと解消して、もっと創造的なことを考えたり、創造にとりかかったりしているすぐれたひとたちがいる。それなのに自分はこんな部屋のすみっこでだるまみたいにじっとすわって、夏の昼間に汗をだらだら流しながらなにをやっているんだか、という気分にもなった。そのたびに自分の積み上げてきたブックマークの判断基準も意味のないものに思えて、それを取っ払ってやろうかと思ったりもした。意味のない基準の厳しさはとうぜん、意味がない。意味があるのか判断できるほど、自分は利口なのだろうか。そんな気分にもなった。それでもとにかく、毎日机の前にすわって、同じことをひたすらつづけることを自分に課した。それは自分で選んだことだし、もともとは好きで始めたことなのだ。それをできるひとはほかにいない。無駄かどうかは人が決めればいい。
と、神経症ぎみな日々もしっかり費やして、無駄に無駄を重ね、わたしの効率の悪さはそろそろ古墳くらいの大きさになっただろうか。
この文章も箇条書きでまとめようと思えばできなくはないのだが、箇条書きをすると、なんだか自分ではない人が書いたような気がして、哀しいことにそれを自分で使ってなにかをしようという気分が生まれてこない。箇条書きをするときに、自分のなかにある無駄を削って、誰かの役に立つような情報に仕立て上げようとしてしまうところがある。
そうではなくて、面倒な手作業のなかから、誰かが勝手にやってきてくれて、勝手になにか感じるところがあって、おもしろいことをはじめてくれたりすれば、わたしにとってこれほどうれしいことはない。なにしろ、自分は不得手なことに新しく手をつけて公道を散らかすよりは、自分の机でできることをこつこつつづけているほうがいいような気がする。ほかのひとが時間がなくて読めないような記事もいちいち読んで、そのなかから自分がおもしろいと思った部分を抜き出して、誰でも使えるようにして置いておく。それが自分のやることかな、という気がする。
わたしが効率の悪い手作業から学んだひとつのことをここに書いておこう。
ブログの価値は、じつは誰かがほかの誰かの引用をするということに決定的な意味がある。そしてそれは人の興味をもっとも個別的に(あるいはミクロ経済的に)観察し、分析する手がかりの情報である。
ソーシャル・ブックマークには、そこから生まれた価値を増幅させる機能をもたせることができる。