(信用、石油、IT、そして)紙はタダではない、浪費するのはやめよう

(This is a translated version of the "John Battelle's Searchblog" blog post. Thanks to John Battelle.)
わたしはこのごろ、「印刷」の世界についてよく考える。これはわたしだけではないだろう。あたりを見渡せば、どこかの記事で新聞や雑誌の終わり、あるいは終わりかけを宣告している。わたしは印刷の土台になっている要素(つまり人になにかを語るということ)が終わるという意見には同意しないが、語ることにまつわる構造がその役回りを終わりかけているという意見には同意する。それから、そのすべてが終わりかけているのではない。
コード化されたコミュニケーション(つまり単語、文法、言語)というのもそうだが、印刷はひとつの大前提を燃料に動いてきた: 紙の浪費だ。18世紀後半か19世紀あたりに紙は非常に安くなったので、経済システム全体が、必要以上に手に入るという前提の上に建てることができた。紙は思いがけないできごとだった--この先きっと、紙を前提とした文化や経済と、ウェブを前提とした文化や経済とを比較する話を書けば、相当な長さになるだろう(きっとすでに書かれているのだろうが、わたしはまだそれを見つけていない)。
出版産業を例にあげよう。つい先日の「タイム」の出版についての記事には、こう書いてある:

出版社は書店に委託するシステムで本を売る。これはつまり書店は売れ残った本を出版社にそのままの金額で返品するということだ。出版社は行きと帰りの両方の送料を負担させられる。それだけではない。印刷の出費と、宣伝費もだ。「売れるとわかっている以上に印刷し、これによって反響をいわばねつ造する、それが終われば刷った本の半分は手元に戻ってくるというわけです」とPWの編集長サラ・ネルソンは言う。

紙を前提にしたコミュニケーションのほかに手段がない世界では、紙を浪費するのにも意味はある。明らかに、世界はいまやすっかり変わってしまった--紙を浪費するのではなく、プロセッサ、ピクセル、そして(ある意味では)通信しあうための帯域幅を浪費するようになったのだ。
タイムの記事はこの変化が本の出版に与えた影響をうまく説明していて、その結果については「ワイアード」と非常に似通った見解をもっている。つまり、出版社は高品質の印刷製品の作り手となり、その立場はウェブの集合知によって正統化されるというわけだ。

従来の出版業がなくなるというのではない--すくなくとも今は、依然として、作家がカネを稼ぎ、生き残るために必要な名声を得るのにはもっとも適した方法である--だがこれからは、見違えるほど姿を変え、小さく共生するようなかたちで、そのピラミッドの頂の一点にとまって生きることになるだろう。読者が昔ながらの高級版の本が欲しいなら、文学を昔ながらのやりかたで読むことができる: つまり、よく選別され、編集され、あつらえ向きの装丁がなされた紙のパッケージだ。しかし下を見れば、ほかの膨大な選択肢が裾野に広がっている: プリント・オン・デマンド版、デジタル端末向け電子版、それもプロフェッショナルとアマチュア編集の選択肢によって階層に分けられる。(給料をもらわないアマチュア編集者はすでに娯楽小説の世界ではよく知られ、かれらはベータ・リーダーズと呼ばれる。)このピラミッドの広い裾野には、無料で、編集されていない、ウェブ限定の小説があり、これは匿名の読者によってユーチューブ方式でレートやランクがつけられたものが生まれるだろう。

タイムはなにかに似たことを言っている。わたしが思い出すのは、ワイアードが最初に出てきたときのことだ。わたしたちが屋根にのぼってデジタル革命の宣言を叫ぶと、このわたしたちの新しい雑誌について、記者たちは愛想笑いをしながら、こう言ったものだ。「デジタルというのなら、なぜ紙の雑誌をつくったのですか?!」
わたしたちの答えはいつも同じだ: 紙をつかってなにかをつくりだすのなら、正当な理由が必要だ。情報を予定量だけ刷って配達するという印刷の時代は終わったのだ。これからは、なにかを紙に託すのなら、それを浪費するという前提をとってはならない。じっさい、それとは反対のことをしなければならない: これを文字通り触りたいという人のために価値を加えていく必要があるのだ(したがって、それがわたしたちのとるデザインの方法だ)。
経済モデルは全体として、紙はタダという前提でつくられたものだ。印刷機も高い、配送も高い、記者の給料も高い、というだけでなく、広告が周縁的なコストのようになるほど紙が高い、となればデジタルに移ろうとなる。いままでのモデルは終わりかけている。だがかつて紙が支えてきた、人になにかを語ることは、終わっていない。さまざまな方向へ、速度をあげながら広がっているのだ。
そこでFMの掲げる主旨が出てくる。デジタルによる新しい出版世界には、メディア企業が必要だ。かれらは紙が安かった時代の本の出版社と同じように振る舞い、そして作家たちは新しい現実のなかで小説を書きはじめる。ウェブで最高の「作家たち」はその実、「クラウドソース」--つまり、自分を支え、評価してくれるどこにもないコミュニティをつくり、育てる力によるものなのだ。ウェブでは、「作家」とは「ドゥース」のヘザー・アームストロングのような人かもしれないし、「ミックス」や「グラフィティ」といったプラットフォームあるいはアプリケーションかもしれないし、「ボーイング・ボーイング」や「シリコン・アレイ・インサイダ」のような「バンド」かもしれない。読者のほうでは、そのサイトへの注目や支持を投票で示す。早い話が、従来の印刷にもとづく出版モデルは終わりかけている。だがビジネスとしての出版はこれまでにないほど活気にみちている。
本の出版社や新聞社にとってはたまったもんじゃないだろう。だがこれが創作の転換期の現実であるし、ビジネスや文化のサイクルはこうして動いているのだ。そしていま出版産業で起きていることが、産業の時代の従兄弟ともいえる銀行、エネルギー、運輸、はてはPC産業にまで及んでいるのは、どうしようもなくはっきりしている。そのどれもが、なにかを浪費することを前提にしている。いくらでもありそうだったもの--信用、石油、計上されたIT予算。
この手の話は言おうと思えばそこらじゅうに言うことはあるし、突っつきまわしたいところだが、今日は金曜日、午後5時だ。このへんにしておこう。