ツイッターは頂点を過ぎつつある

(This is a translated version of "Micro Persuasion" blog post. Thanks to Steve Rubel.)
わたしがツイッターの常用者となったのは、2007年1月のことだった。それからのあいだ、ものごとは驚くほど変わったものだ。
この6か月のあいだ、ツイッターは核爆発を起こした。それには3つ理由があって、この投稿ではそれを論じてみたい。だがその理由を見ると、ツイッター頂点を過ぎつつあることがわかってきて、わたしたちはそれでは「ザ・ネクスト・ビッグ・シング」はなんだろうと自問することになる。
ツイッターがフォローイングをやめないかぎり、あらゆるビジネスがそこに便乗して、顧客との対話のきっかけをつかめるのではないかとわたしは思っている。というのは1年前にも話したとおりだ。それでも、大きな見通しをしっかり見ておくことは誰にとっても大事なことだ。そういうわけで、マーケットの成り行きを予測することは、わたしにとってはいつも楽しみである。ひとつには、それをすること--つまりは「次はなにか」と考えること--が、わたしの食い扶持になっているというのもある。これが癖になっているせいか、わたしだとかロバート・スコーブルだとかいった人たちは、なんだかんだでいつも新しいものに関わりつづけている。
2006年12月にエヴァン・ウィリアムズがわたしにツイッターを見せてくれたのは、シアトルで乗ったタクシーの後部座席であった。わたしはそのとき、これではどこにも行けないだろうと思った。だがそれを使ってみると、たちまちハマってしまったのだ。ツイッターにのめりこんだのは、いまでもそうなのだが、わたしが「次はなにか」といつも遠くを見渡していたからだ。2006年後半にわたしは、ブロギングが頂点を過ぎつつあると感じた。ツイッターがわたしにとってそのかわりとなり、その後、数百人のひとに広がっていった。いま、同じことがRSSについて言えそうだ。いわゆるアーリーアダプタのひとたちが飛びついたが、それがいまや一斉に置き捨てられつつある。(RSSについて詳しくはつぎの投稿で書く)
前にも書いたとおり、あるコミュニティが力の中枢でありつづけることは、いまだ起きたことがないツイッターはいま、この傾向の犠牲者になりつつある。ツイッターがなぜ、信じがたいほどの成長をとげたのか、3つ理由を挙げよう。そのどれもが、このサーヴィスがなぜ、頂点に達しつつあるかを言い当てている。(注: 同意できないという人も多いだろう。ダニエル・ターディマンが今日、「SXSWで、ツイッターは新しいツイッターだった」という記事を書いている)
1) 有名人がツイッターに参入している -- つい6か月前、ツイッターの上位100人のユーザのリストには、ギークのなかのギークといった面々がそろっていた。それがはじめは、多くの人をひきつけた。だがいまでは、このリストはまるで「ピープル」だとか「USマガジン」といった雰囲気である。ツイッター有名人たちがサーヴィスに参入してきたことで、初期のギークらしさを失いつつある。
歴史を振り返ると、ギークが去ってしまうと、ソーシャル・メディアもそれに倣う。わたしが思うに、「ツイッターの祖なる父母」の人たち、つまりこのサーヴィスに羽を与えた人たちは、もうすぐこれに飽きてしまい、きらめく次の上陸地を探し出すだろう。いや、もうすでに、デイヴ・ワイナーは「ジャイク」を楽しんで使っているスコーブルは「フレンドフィード」に浸りっきりである。わたしはこのごろフレンドフィードや「フェースブック」に使い道を感じ取っていて、そこから次が開けると思う。
2) ツイッターはまとまりがない -- ツイッターがフォローイングを惹きつけたのは、それがまとまりがないからだ。誰かに返事をしても、それはスレッドにまとまらないので、有名人や企業からすれば、すべてのツイートに返事をしなければならないような気にさせられる。これは森の中にある一本の木といった具合だ。そこには司会役のようなコメントは出てこない。それがゆえにブロギングよりも惹き付けるというのはある。
ところが、かつては「機能」であったものが、そのうちに「バグ」であると思われるようになり、もっとまとまりが必要だという話になるジェフ・ジャーヴィス彼の著書「グーグルはなにをしたいのか」で説明しているようにフェースブックやグーグルのようなサーヴィスでは、美しくまとまったものが提供される。この点ではフレンドフィードも同じことである。それからこれは、ツイートデックがしぶとく残っている理由でもある。ツイッターはツイートデックをいまのうちに、誰かに買われる前に買収してしまったほうが賢明かもしれない。ここでソーシャルの触手を広げようというのなら、なおさらである
3) ツイッターの幅は1マイル、でも深さは1インチ -- 簡潔であることがツイッターの持ち前だ。これが、時間に追い立てられている有名人や企業が、ブロギングをするよりもツイッターに飛びついている理由でもある。それと同時に、これは匿名性を確保している。ツイッターでは「ひとつの企業」にとどまることができる。これはブログでは実現できないようなことである。そこでは見せるための顔が求められるのだ。
ところが、ツイッターが成長してくると、こんどは人が、良いことを言う人や、信頼できる人のツイートを読みたいと渇望しはじめる。わたしはそこに、より深い関係、すなわち匿名性の少ない関係を人が求めているのかはわからない。これはほかのサーヴィス、たとえばフレンドフィードやフェースブックがとてもうまくやっていることだ。あなたが載せたあれこれの情報のまわりに、コミュニティをつくることができる。たんに140文字のツイートだけでなくて。それから、わたしが思うに、人はノイズから信号を探し出したいと思うのではないか。いまや、これは困難なことである。
まあ、これを読んだ人は、ツイッターが頂点を過ぎていると聞いたのは初めてかもしれない。だがわたしは、ツイッターがその、外からのぞきこんでくる「冷やかし」に持ちこたえることができると思っているし、だがそこにはとるべき道というのがあると思う。つまり、コアなユーザを損なわず、企業や有名人にとっても魅力的でありつづけること。もうすこしまとまりのあるところにすること。後者については、検索が役立つことだろう。だがフェースブックやフレンドフィードがそろってあなたがたのソーシャルにまつわるあれこれを「何でも屋」みたいに取り込もうと競ってくることは見込んでおいたほうがよさそうだ。