なぜライフストリームなのか? レオナルド・ダ・ヴィンチをモデルとするためだ

(This is a translated version of "The Steve Rubel Lifestream" post. Thanks to Steve Rubel.)

わたしのほうは、コミュニティがわたしに求めるものを大事にして、これからも自分で大事なことをやっていると思うかぎりはブロギングをつづけていきたい。
ーージェレマイア・オウヤン、June 26, 2009 writing on web-strategist.com

わたしが昨日書いた、ブロギングをやめてライフストリーミングに移るという話題について、けっこうな数の投稿があったようだ。コメント欄でも何人かの人が、RSSフィードの購読を取りやめると書いていた。わたしはここで、この件の意味を少しはっきりさせておきたい。ノイズが増えるわけでもないし、シグナルが減るわけでもない。
わたしの意図では、ライフストリームはじっさい、先への見通し、リンク、動画、写真などからなる思考のストリームである。一部の人はただたくさん投稿するためだけにライフストリームを行っているが、わたしは約束したい。わたしは近未来のテクノロジのトレンドについて、質の高いものを共有したいだけなのだ。ではその違いはといえば、すべてのアイテムが読み物とはかぎらないということだ。上に引用したジェレマイアの言うところの方法とはべつのものだ。
ライフストリーミングとは、レオナルド・ダ・ヴィンチのノートブックの現代デジタル版のようなものだとわたしは思っている(誤解のないように、わたしは自分をダ・ヴィンチになぞらえるつもりはない。これは純粋にそうなりたいという気持から来るメタファーだ)。ダ・ヴィンチは覚え書き、絵画、疑問への問いかけ、その他のものをノートブックに記した。その一部はきわめて世俗的なものだった(食料品や、ただの思いつき)。残りはそうでないものだった。だがいまになって見ればこの作品の主要な中身は、とある個人の考えたものの見方なのだ(彼の場合はすぐれたものだった)。
わたしのライフストリームはそれと同じではない。だがわたしにとってのモデルなのだ。あなたがこの旅路の仲間に入ってくれたなら、近未来のテクノロジのトレンドについて、リンクやら、画像やら、動画やらオーディオやらを混ぜて、たくさん学ぶべきことを共有できることを約束する。ここがブログと何が違うのかと言えば、わたしのオンライン日記のなかで新しい情報や思いつきのプロセスを、まさにこの場で共に学んでいくこと、そしてわたしの考えをリアルタイムで共有/表現することである。
ブログでやってきたことと、ここの形式との違いはそういうことだ。とりわけ、短い紹介、写真、動画、音声がそれにあたる。