メディアの衰退と台頭

(This is a translated version of "A VC" blog post. Thanks to Fred Wilson.)
デーヴィッド・カーが今朝のニュー・ヨーク・タイムズに「メディアの衰退と台頭」というすぐれた記事を書いていた。
この記事ははじめに古いメディア・ビジネスのやり方について述べる。かつて若者は学校を出てNYCにやって来ると、下っ端の仕事をしながらいつか有名になり、メインストリームのメディアが織り成す「ヴェルヴェット・ロープ」の仲間入りを果たすことを望んだという。
記事の最後では、こんにちの若者がしていることがこのように描写されている。

フラティロン、ブルックリン、クイーンズ、あるいはハーレムといった街の片隅では、輝かしい才能をもった若者が、たんなる知的好奇心からではなく世の大変化を間近で経験している。かれらのもつちっぽけなネットブックやアイフォンは、クラウドへとつながる玄関口として機能しており、そこに入っていけば、つい20年前の新聞社の編集室全体がもっていた情報よりもさらに強力な情報の威力がぎっしり詰まっている。そしてかれらはソーシャル・メディアという形をとったオーディエンスからコンテントをこそげ取り、あふれかえる情報をより充実したものに並べ替える方法を生み出している。かれらは若者の求めるものに応えるために駆けずり回っているが、それだけでなくこれが自分たちの時代の天の恩恵であるという自負ももっている。

デーヴィッドの読みは的確だ。わたしはいままで、この大変化を近くで見てきたし、そこに融資することで関わってきた(それから彼がNYCに来て最初にした仕事inside.comにも融資をしたが、それはべつの話だ)。ヴェルヴェット・ロープ・モデルから実力主義への転換はよいことだと思うし、古いメディアの通夜が行なわれるなかでわたしたちが築きつつある新しいメディア・ビジネスはよりよいメディア・ビジネスになるだろうと思う。敏感で、迅速で、メディア王ではなくユーザによってコントロールされるメディアだ。
この変化は腹の底にずしりと来るものであるし、その過程において多くの人たちが職を失ったり、キャリアを閉ざされたりしている。わたしはそのことを歓迎したりはしない。じっさい、わたしも動揺することがある。だがそれでも、自己改革を果たし、生まれ変わった姿で現れた人たちをたくさん見てきた。変化は不可避である以上、わたしたちはそれに歯向かうのではなく、それとともに生きていくほうがいい。
デーヴィッドが言うように、「どのような覇権であれ、それは一時のものにすぎないということを思い出させてくれる」。こんどの変化も、やはりそうだろう。だからともに乗り越えていこう。